- 2021/05/01
- Category : 南井三鷹の俳句に言ってみた
俳句の終わりを考える【後編】
河東碧梧桐という「詩人」の亡霊
俳句はクリエイティブでもなければ、アートでもない、と僕は言いましたが、
何も俳句をけなしているわけではありません。
そんなものがなくても俳句は立派に文学として存在できます。
俳句には俳句の道があるのですが、なぜか最近の俳人は俳句にコンプレックス(隠キャ!)があるらしく、
俳句でありながら俳句でないものとして見られたい、という青臭い我儘に膠着してどんどん作品の質を下げています。
俳句として見られたくないなら、俳句雑誌や俳句番組になど出て来なければいいと思うのですが、
前述したように、彼らは本質的に業界のインフラに依存しないで売り上げを稼ぐことができない新フレーバー製品なので、旧製品の販売ラインから外れることができないのです。
このような試みが何か生産的な結果を生むはずもないのですが、クリエイティビティと無縁な俳人は本質的な業界批判ができない人ばかりなので、
出版メディアの没落に付き合って、文学としての俳句文化も没落させてしまうことになりそうです。
まあ、本当に没落するまで僕の言うことなどわからないのでしょうし、僕自身は不愉快な目に遭わされた業界なので、勝手にすればいいと思うようになりました。
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