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『柄谷行人浅田彰全対話』(講談社文芸文庫)柄谷 行人 浅田 彰 著

対談という日本的な文化

本書は1985年から1998年にかけて行われた、柄谷行人と浅田彰の対話を6回分収録しています。
対談というのは良くも悪くも日本的な文化だと思います。
日本のジャーナリズムでは大人気企画で、2人だと「対談」、複数だと「座談会」と呼ばれたりするのですが、
座談会は菊池寛が「文藝春秋」誌上で初めて企画したと言われています。
これらはあまり欧米では行われていないもののようです。
欧米ではインタビューの形で話し手と聞き手をある程度しっかり分けて、
話し手の考えを読者にわかるように伝える、というジャーナリスティックな目的で行われているように思います。
しかし、対談や座談会では共通の「場」に複数の人が参入し、ある話題について意見を交換するというかたちで進みます。


ただ、この対談や座談会の有効性についてはあまり考察されてきたようには思えません。
たとえば日本で最も考察された座談会といえば、1942年に「文学界」の特集として13人が参加した「近代の超克」が挙げられると思います。
いろいろな人たちがこの座談会について書いているのですが、たいていは座談会そのものの内容は低調だったとしています。
しかし、13人も参加した座談会に低調でないものなどあるものでしょうか。
人数を絞って対談にしたところで、やはり読むべきほどの内容が得られることは少ないと思います。
なぜなら、最終的にはある程度「場」がまとまる必要があるので、
参加者が互いに暗黙の了解を共有したり、相手の考えについての理解を持っていたりすることになるからです。
結局は「場」の共有を前提とした「内輪の話」以上のものにはならないのです。
その意味で、対談する2人は関係が近すぎても遠すぎても面白味が出ません。
俳句の二物衝撃のように、近すぎず遠すぎずがいい塩梅ということになるわけです。


しかし、実際は内輪感バリバリの近い人同士の対談が目立ちます。
近すぎず遠すぎずの関係は読者にとっては面白いのですが、やる側にとって楽ではないからです。
こうなると対談や座談会という企画が、いかに編集する側にとっての都合であるかが想像できるのではないでしょうか。


では、なぜ日本ではこの手の企画が人気なのでしょう。
それはおそらく、彼らの語った内容を知ること以上に、彼らの「場」に自分も参与することに読者の関心があるからだと思います。
他人の発言を参考にして勉強したり触発されたりする勤勉な読者もいるはずですが、
あまりそういう人が多いような気はしません。
なぜなら実際には信用に足りない低レベルの発言をする人の対談を平気で何度も掲載している雑誌が少なくないからです。
そこから推測するに、読者は論考の読解という負荷のかかる作業より、
手軽に一流の知識人の発言を「拝借」して、自分がその「場」に参与している気分になることを重視しているのでしょう。
つまり、対談や座談会はそこで前提とされる知的な「場」への憧れで駆動されているのです。
これが日本独特のワイドショーなどのコメンテイター文化を構成するようになり、
ジャーナリズムで活躍する「マスコミ御用達」のエセ知識人がアイドル化する原因となっています。
(東浩紀が立ち上げたゲンロンカフェが、出演者を「ゲンロンカフェ四天王」と呼び、地下アイドル化に励んでいたことには苦笑するしかありませんでした)


さて、本書は左派思想のアイドルとも言える柄谷行人と浅田彰の対話を集めたものですが、この2人が近すぎる関係であることは疑いありません。
雑誌「批評空間」を一緒に編集してきた仲だからです。
(僕はこの雑誌を一度も読んだことがありませんが、「ゲンロン」の東浩紀はこの雑誌から出てきてアイドル化したのでしたね)
本書の最後に柄谷が浅田との関係について書いた文があるのですが、
「漫才でいえば、私はボケで、彼はツッコミである」と表現されているのは言い得て妙でした。
その意味で、2人の対話は対談というよりもコンビ芸に近いものがあります。
柄谷の尖ったアイデアをすぐさま浅田が適切に整理する、ベテランの餅つきのような手つきには何度も驚嘆しました。