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『古代インド哲学史概説』 (佼成出版社) 金岡 秀友 著 【その2】

「一」と「多」との合一すなわち「梵我一如」が意味するもの

アーリヤ人による最古の文献である『リグ・ヴェーダ』が成立してから、ほかにも多くのヴェーダ文献が編纂されるようになります。
本書では成立期によってそれらを「第一次ヴェーダ」「第二次ヴェーダ」「第三次ヴェーダ」と分けています。


第二次ヴェーダに分類されるものの中で代表的なものは、祭祀で唱えるマントラの解説や解釈などを集成した「ブラフーマナ」文献です。
ブラフーマナ(梵書)は言ってみれば儀式書です。
ヴェーダ祭式のやり方と祭詞・呪句についての解説などで構成されている「祭祀の書」です。
ブラフーマナには、神より人間の方を上位とする考えがあると金岡は指摘します。
というのは、文献の規定通りに間違いなく祭祀を実行すれば、神は人間の要求を拒むことができないと考えられていたからです。
これが祭祀の厳密な規定に対する知識と実行の権限を持つ者(バラモン)が、神々を動かし、宇宙を支配する権力者と見なされることにつながったのです。
神を祭祀の道具と見るインド的な神の捉え方(神観)は、ユダヤ・キリストの神とは異質と金岡は述べます。


ブラフーマナにおける神観の特色は、ヴェーダ、ことに『リグ・ヴェーダ』において一般的であった自然崇拝的なそれから、その背後の力、根源的な力、宇宙神的なものを求めるようになったことにある。

金岡はこのように書いて、第二次ヴェーダにプラジャーパティという世界の創造主が登場する理由を説明します。
神々が抽象化していくことによって、「無」や「ブラフマン(最高真実)」などの世界の根本原因が求められるようになっていったわけです。