南井三鷹の文藝✖︎上等

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『冬の旅、夏の夢』(朔出版)高山 れおな 著 with 『彷徨』(ふらんす堂)中原 道夫 著

アイロニーの退屈さ

高山れおな『冬の旅、夏の夢』は第4句集にあたります。
第3句集『俳諧曾我』(2012年)が部数限定での販売だったので、一般読者向けの句集としては13年ぶりの新刊です。
高山は2018年7月から朝日新聞の俳句投稿コーナーである「朝日俳壇」の新選者となったので、
新しい読者への「顔見せ興業」の意味を持った句集だと考えてよいと思います。
実際、書店ではこの句集の表紙に「朝日俳壇」新選者であることを示すシールがわざわざ貼られていました。
高山は「─俳句空間─豈weekly」の創刊のことばとなる「俳句など誰も読んではいない」という文章でこう書いていました。


そもそも結社誌なる存在にしてからが、主宰者を主体にした刊行物という見せかけのもと、多数の小口の出資者が共同でひとりの読み手を雇っていると考えた方が実態に近いだろう。意地悪く言えば、句会もまた、俳句作品に対する贋の需要を最小限の犠牲で発生させる装置なのだ。

なるほど、結社の主宰は小口の出資者に雇われた読み手でしかないと貶めているわけですが、
しかしその高山も、今となっては大口の新聞社に読み手として雇われているわけです。
その上、句集を売るのに新聞俳壇の選者という肩書きを用いられてしまうお瑣末さ。
マスコミの力に抱っこされている高山が、自分で結社を運営する人よりどうして偉いのか僕にはよくわからないのですが、
俳句界というのは結社の悪口を言えば一定の支持が得られるところなのでしょうか。
(放っておいても結社はどんどん廃れていく運命にありますが、残念ながら新聞や大手マスメディアも同じ運命をたどります)



「権威」という病

ネット民に支持を受けた人がネット批判をはじめた

最近インターネットで支持されてきた人がインターネットを批判する(もしくは悲観する)ことを目にするようになってきました。
わかりやすい例が「ゲンロン」を運営していた東浩紀です。
僕は同世代だったので初期のころから彼の活躍を知っているのですが、
1998年に『存在論的、郵便的』で注目を集めたあと、
網状言論などと言って出版よりネットでの言論活動を重視して、インターネット世代の代表としてオタクの肯定に勤しんでいました。
インターネット嫌いの僕は彼が世代の代表と思われることが本当に嫌でしたし、
そういう世の中から距離をとりたくて作品発表も断念していました。
しかし、最近の東はどうやらインターネットの未来を悲観するようになっているようです。
BLOGOSに掲載されている東のインタビューでは、ネットの古き良き時代を振り返る哀愁のオジさんという雰囲気で、このように述べています。


ネットは世の中変えないどころか、むしろ悪くしている。フェイクニュースとかポストトゥルースといわれていた現象で、これもいまはみなわかっていることだと思います。

このインタビューで東が「問題は「リアルタイム」が重視されすぎていることです」とか言うようになっているのが面白かったです。
(2003年に僕は、webを礼賛する東がデリダのリアルタイム批判を理解していないと批判していたのですけどね)
東はネットに夢を見たあとに「転向」して雑誌の形態へと戻り、「ゲンロン」を出版するようになりました。
ネットでしか見れないコンテンツで活動していた人が、あとになって出版に戻るのも考えが浅かったことの証明でしかありませんし、
「誤配」とか「切断の自由」とか言ってた人が、フェイクニュースの批判をするのも、
自分にその資格があるのか、しっかりとした反省をしてからにしてもらいたいものです。