南井三鷹の文藝✖︎上等

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文化の骨について

韓国映画の快進撃

この前、地上波で韓国映画『パラサイト 半地下の家族』が放映していたのにたまたま気づいて、だいたい3分遅れくらいで見始めました。
実を言うと僕は映画嫌いです。
正確に言えば映画館ヽヽヽ嫌いなのかもしれませんが、
どうにも映画を見る意欲に乏しく、普段は目についたものをテレビで流して見るくらいなのですが、
さすがに『パラサイト』は、カンヌ国際映画祭でパルムドールに選ばれ、第92回アカデミー賞で作品賞をはじめ4部門を制覇した名作です。
暇があったら見てしまうものではあります。
たいした期待も持たずに見始めましたが、早めから観客を引き込むような巧みな作りで、最後までおもしろく見てしまいました。
僕はその程度の観客なので、映画にも詳しくありませんし、ポン・ジュノ監督の他の作品も全く知りません。
(後で調べてみたら、『グエムル 漢江の怪物』はCMを見た記憶がかすかにありました)
でも、この作品を見たら少し言ってみたいことが出てきました。


韓国に対する好き嫌いは別として、ある程度客観的な目で見ていくと、
映画やドラマに関しては、日本より韓国の方がクオリティの高いものを作っていると思います。
僕は以前に韓国の恋愛ドラマがなぜ日本の恋愛ドラマよりおもしろいのかを文章にしたことがあるのですが、
今やそこで書いた韓国ドラマのエッセンスを日本のドラマも真似するようになっています。
NiziUなど、グループアイドル界でも韓国の方法論を日本が後追いしているのが現状です。
(日本のアイドルにはBTSのようにビルボードで1位になる日は来ないでしょうが)
僕は読んでいないのですが、書店の外国文学の棚を見ているだけでも、韓国作家の本が増えた気がします。
マンガやアニメに関しては、まだ日本がリードを保っていると思いますが、
市場の狭いところで勝っているだけにも思えます。
まあ、この種の議論は感情的になる人もいるでしょうから、客観的評価というより僕の個人的感想ということでも構いません。
どんなに国内で大声を出しても、国際評価がついてこなければ虚しいだけですけどね。



芸術疎外論【その4】後編

敵対性を前提とする一神教思想

ヘーゲルの共同体において、否定性を介した「反省」というプロセスが重要であることはすでに確認したとおりですが、
この否定性の導入のことをヘーゲルは「疎外(Entfremdung)」や「外化(Entäußerung)」という言葉で示しています。
法律用語のEntäußerungは財産などの「譲渡」を意味する語です。
ここから個人の意志を権力へと「委譲」する意味で用いられることもあるようです。


疎外の概念が登場するのは、古代ギリシア的な人倫共同体が没落して、ローマ帝国になぞらえられる「法支配」が成立するようになってからです。
そのプロセスに軽く触れておきます。
共同体は他の共同体を排除して独立を保ちます。
その戦いに備えて、共同体は自らの内部をワンチームにしようと「個体が個別化することを抑圧する」ことになります。
なぜなら、ポリス的な人倫共同体にも共同性と個別性の葛藤は存在するからです。
ヘーゲルがそれを男性原理と女性原理、年配者と若者の葛藤として描いたりするのも興味深いのですが、
祖国防衛戦争に突入すると、共同性の原理が強まって個別性を否定していく結果になります。
しかし、それが皮肉な結果を導きます。
祖国を守るのは若い個別の兵士たちです。
共同体の維持という仕事が、命を賭けた若い兵士の個別性をかえって輝かせることになってしまうのです。
こうして生き生きとした人倫的な共同性は没落し、個別的な個体が生き生きとする普遍的な共同体が成立します。
これを『精神現象学』では「法支配」の状態と呼んでいます。



芸術疎外論【その4】前編

「他者」を否定するオタクたち

前回はヘーゲル『精神現象学』の「自己意識」の章に出てくる「不幸な意識」を中心に見ていきました。
不幸な意識ではキリスト教の精神が描かれていたのですが、
そこでは理念と現実、彼岸と此岸に分裂した意識を統一することが課題でした。
分裂した両者は「媒語」によって、いったん推論的に結合されて、次のステージである「理性」へと至ります。
「理性」の章は割愛しますが、その後には「精神」へと段階的に発展していくことになります。
『精神現象学』で疎外が語られるのは、「精神」の段階になってからです。


理性が精神となるのは、「いっさいの実在性である」とする確信が真理ヴアールハイトまで高められたときである。つまりその場合の理性は、じぶん自身をみずからにとっての世界として、また世界をじぶん自身として意識することになる。(ヘーゲル『精神現象学【下】熊野純彦訳)

長谷川宏は『ヘーゲルを読む』(1995年)で、ヘーゲルの「精神」を人間が集まって作る共同性だとして、
「精神はそういう共同の生活や共同の世界のうちにやどる」と述べています。
フレドリック・ジェイムソンも『ヘーゲル変奏』(2010年)で、ヘーゲルの「精神」には「集合性の含意がつねに込められてい」るとしています。
「精神」とは民族精神などのように、集合的・共同的なものを言うのです。
つまり引用文にある、自分が世界であり、世界が自分であると意識する、という内容は、
個々の人が個人でありながら、他の人々と共にある共同存在でもあるさまを表しています。
ここでヘーゲルは共同体論に踏み込んでいくわけです。