南井三鷹の文藝✖︎上等

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『「社会正義」はいつも正しい』(早川書房)ヘレン・プラックローズ ジェームズ・リンゼイ 著/山形 浩生 森本 正史 訳

差別批判の裏側──〈社会正義〉の横暴

自由を信条とする「リベラリズム」が、近年になって危機に瀕しています。
リベラリズムの意味は多様でわかりにくいのですが、
異質な価値観の共存と個々人の自由を、理性的な議論によって認め合う態度、と理解しておけばいいでしょう。
liberalという語に「寛大な、度量が大きい」の意味があるように、
自由だけを尊重するのではなく、自由と平等の両立を模索していくのが、本来のリベラリズムです。
リベラリズムは左派的と見なされるので、右派の保守勢力がこの考え方を敵視するのはわかるのですが、
最近になって目立っているのは、リベラルに分類される〈社会正義〉(Social Justice)の活動が、人々の自由を害している状況です。
とりわけ、「表現の自由」が危機にさらされています。
左派の尊重する自由が、〈社会正義〉という左派勢力に脅かされる「ねじれ現象」は、どうして生まれてしまったのでしょうか。



「資本主義批判」で儲けるために

出版業界も「番宣」花ざかり

斎藤幸平の新刊『ゼロからの『資本論』』が、店頭に積み上げられているのを見て、
またこういう商売か、と思ってしまいました。
「こういう商売」というのは、テレビで言う「番宣」にあたる自己宣伝のコンテンツ化のことです。
出版に当てはめるならば、自分の利益に関与する書物を宣伝するための書物ということになります。



なぜ日本では高度情報技術と消費社会の批判は歓迎されないのか

マス消費者を操るテクノロジーとイデオロギー

先頃、ドイツ現代思想の思想家ビョンチョル・ハンの『情報支配社会』(2021年)の邦訳を読みました。
現代社会の「肯定性の過剰」を取り上げた『疲労社会』(2010年)と『透明社会』(2012年)に続いて、
この本では「デジタル情報体制(Infokratie)」の支配を切れ味鋭く批判しているのですが、
ハンの優れた考察が日本の読者に響くかと言えば、極めて怪しいと悲観せずにはいられませんでした。


ズバリ言ってしまいますが、日本ではメディア技術の批判は歓迎されないのです。
書店を見回してみれば、高度情報技術を批判する本は、海外の翻訳ものがほとんどです。
たとえばアンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』(2019年)は、日本でベストセラーになりましたが、
このようなスマホ批判の本は、不思議と著者が外国人なのです。
どうやら日本の出版人やマスコミは、高度情報技術や消費社会の批判を、自分ではやりたくないようなのです。



『力と交換様式』(岩波書店)柄谷 行人 著

生産から交換へ

去る12月8日に柄谷行人がアメリカのバーグルエン賞に選ばれました。
僕は柄谷から多くを学んできたので、彼の実績が国際的に認められたことを非常に喜ばしく思っています。
その柄谷が集大成的に追求しているのが「交換様式」論です。
それを改めてまとめた『力と交換様式』(2022年)を今回は取り上げます。


「交換様式」とは何なのか、と思う人もいるかもしれませんが、広く社会的に行われている交換を、タイプ別に把握したものです。
それまでのマルクス主義理論では、経済的土台となる生産様式が社会を構成するという発想でしたが、
柄谷は生産様式が土台であることを認めつつ、問題意識を生産様式から交換様式へと移すことを提案しています。
「生産様式から交換様式への移行」が近年の柄谷のテーマなのです。



ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その5】

極の不動

荒木飛呂彦の人気漫画『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの第3部「スターダストクルセイダース」(1992年)で、
主人公の空条承太郎と宿敵のDIOとのラストバトルは、双方の「時間を止める能力」の使い方で勝負がつきます。
9秒間も時間が止められるDIOが、2秒止めるのが精一杯の承太郎に敗れた原因は、優越感による慢心以外にないわけですが、
時間を何秒間止められるか、という逆説的な現象は、「時間を止める」ということが認知上の錯覚でしかなく、
実際は自身が高速で動いているために、周囲の時間が止まって見える、ということに起因します。
時間が静止する感覚は、認知主体が度を超えた高速で動いているからこそ起こるのです。
つまり、速度を極限まで加速していくと、時間が静止する「瞬間」がだんだんと引き伸ばされていくことになります。
こうして「加速」による価値が、「瞬間」の価値へと置き換えられるのです。



『収容所から来た遺書』(文春文庫)辺見 じゅん 著

帰国へダモイ」という希望

「大東亜戦争」と言われる日本と連合国との戦争は、1945年に「終戦」を迎えました。
しかし、国家が降伏を宣言した時に、戦争から兵士たちが解放されるわけではありません。
戦争終結後も戦争状態を生きなければならなかった人たちがいました。
その代表が、捕虜になった人たちです。
とりわけ過酷であったことが知られるのが、ソビエト連邦に投降し、強制収容所(ラーゲリ)で長きにわたり抑留された兵士や民間人です。
いわゆる「シベリア抑留」ですが、実は僕の祖父も日本軍兵士として出征し、シベリアで抑留されていました。
祖父は戦争の話をしたがりませんでしたが、とりわけ収容所の生活については祖母にも話さなかったようです。
終戦間近の1945年8月に、ソ連軍は中立条約を破棄して満州や樺太などの日本領内に侵攻しました。
もう日本軍に抵抗する力はなく、投降する兵士も多数出ました。
ソ連に抑留された日本人は、厚生労働省のレポートでは57万とされていますが、70万を超えるという説もあります。
ただでさえ猛烈な寒さに襲われるシベリアで、満足な食事も得られずに厳しい労働に従事させられたため、
本国に帰ることなく亡くなった人は最低でも5万5千人に上ります。



『透明社会』(花伝社)ビョンチョル・ハン 著/守 博紀 訳【後編】

居心地を追求した静止=生死なきオタク社会

サブカル文学の批判に共感する人は少ないでしょうから、話を『透明社会』に戻しますが、
ハンはプンクトゥムを「静止の場所」として捉えています。
ハンがポルノとして示すイメージとは、広告のことだと考えるとわかりやすいと思います。
テレビでもネットでも広告というものは流れ去るものでしかありません。
わざわざ静止して熟考するものではありませんし、熟考させる間もなく消費の欲望を喚起し、購入へとつなげるのが目的です。


こんにち生じている視覚的なもののポルノグラフィ化は脱文化化として進行する。ポルノグラフィックで脱文化化されたイメージは、読解すべきものをなにも与えない。それは広告イメージのように、媒介されることなく接触して伝染するように作用する。
(ビョンチョル・ハン『透明社会』守博紀訳)

ただメディア上で展示されるだけのイメージは、読解されることを求めません。
意味などという遅いものに媒介されることなく、ただ素早く接触し伝染することが至上命題です。
そこに「静止の場所」であるプンクトゥムが入り込む余地はありません。
(ハンは広告イメージにはストゥディウムも存在しないと書いています)



『透明社会』(花伝社)ビョンチョル・ハン 著/守 博紀 訳【前編】

透明性を要求する社会

前回に続きドイツ現代思想のビョンチョル・ハンを読んでいきます。
ハンの『疲労社会』(2010年)のテーマは、「同質なものが多すぎる」こと、つまり「肯定性の過剰」でした。
『透明社会』(2012年)でも同じく「肯定性の過剰」を問題にしているので、『疲労社会』の続編と考えて良いでしょう。


21世紀の社会では、グローバル産業社会の要請によって異質性や他者性が減退しています。
市場取引の拡大には商売における同一基準が必要になるので、異質性が差異へと切り下げられた同質的な社会が求められます。
社会が同質性を前提とするようになると、否定的要素を消し去るメカニズムが発達して、肯定性ばかりがあふれるようになりました。
それが「肯定性の過剰」です。
肯定性があふれると同質なものが多すぎる状態となり、他との差異を明らかにするために自分の能力を自発的に示すことが必要になります。
誰もが「できる」という肯定性を示すプレッシャーに苦しめられるのです。
つまり、現代社会において問題とすべきなのは、もはや否定性や他者性ではなく、肯定性による精神的な暴力プレッシャーだということです。



『疲労社会』(花伝社)ビョンチョル・ハン 著/横山 陸 訳

ポストモダンとは同質性の過剰

昨年、ビョンチョル・ハンの著作の翻訳が、花伝社から2冊同時に出版されました。
『疲労社会』(2010年)と『透明社会』(2012年)の2冊は、どちらも今から10年も前の本ですが、
短くて読みやすいので、ドイツの現代思想の一端を知るのにいい本です。
ビョンチョル・ハンは韓国からドイツに渡り、現象学研究で教授資格を獲得した人で、哲学やメディア論が専門です。
ベルリン芸術大学の教授だったので、ヨーロッパのアート界で高い評価を受けているのですが、
彼の著書は多彩で、現代社会論以外にもハイデガー論や東洋思想の本も書いています。
『禅仏教の哲学』(2002年)では、禅の理解のために俳句を取り上げているようです。



ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その4】

映画という兵器

ヴィリリオの思想を初期から見直す記事の4回目です。
ヴィリリオはメディアの本質を、「速度」を生み出す「乗り物」として考えた人です。
乗り物は加速によって、それまでいた場所を置き去りにするので、
乗り手に地上的な生活から離脱した体験をもたらします。
生活の外部に離脱する体験とは、「彼岸」の擬似体験にほかなりません。
日常生活から離れて速度の中にある人間を、僕は〈速度−内−存在〉と名づけました。
速度を媒介メディアとして生活領域から離脱する技術は、やがてフィルムを一定速度で回転させてスクリーンに映し出す映像技術へと受け継がれるのです。