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ポストモダンとは何だったのか──浅田彰『構造と力』を読み直す

ポストモダンのはじまり──思想のファッション化

のちに「ニューアカ」という呼び名とともに記憶される浅田彰の『構造と力』が出版されたのは1983年でした。
僕がまだ小学生の頃です。
『構造と力』は1981年から83年にかけて主に「現代思想」に掲載された文章によって構成されています。
僕が本書を知った時には「ニューアカ」を代表する浅田彰や中沢新一の評価はすでに固まっていました。
浅田は日本の現代思想を語る上で欠かせない人になっていたのです。


今でも彼の評価はそこそこ高いように思えますし、東浩紀や千葉雅也は彼の後継者(要するにエピゴーネン)として位置づけられ、「現代思想の終身雇用構造」(フランス現代思想系の若手研究者を未熟なうちからスター扱いしてチヤホヤする構造のこと)を形成してきました。
「ニューアカ」時代の浅田と中沢はまだ「助手」であったので、マスコミに代表される大衆の支持において権威のツリー構造を擾乱するポストモダン的な現象と言えましたし、
東浩紀もアカデミズムに安住せずにマスコミの世界へと転身したために、ポストモダンを生きていたと言えなくもないのですが、
國分功一郎や千葉雅也にいたっては、アカデミズムでの出世路線を確保つつマスコミ露出に励むことで、先輩たちのように社会との葛藤をしないで済ませる「権威に甘えたおぼっちゃん」の道を選んでいます。
こうした変化からもわかるように、日本のポストモダンは思想どころか「現象」としても完全にアクチュアリティを失いました。
今や「ツリー」的な終身雇用構造に依存した学者が「リゾーム」とかほざいているだけの詐欺行為が、〈俗流フランス現代思想〉として流通するだけになってしまいました。


日本には、海外のものを自己流にアレンジして(つまりは去勢して)受け入れ、それを国内の利権者が外的な「権威」として自らのために利用する構造が脈々と受け継がれています。
〈内実〉が排除されるのは「世代を越えた利権構造の維持」が目的でしかないからです。
この構造は仏教伝来から続いているので、まさに日本的構造(もしくは天皇制)と呼ぶにふさわしいものです。
(仏教の「日本化」については中村元『日本人の思惟方法』を参照ください)
天皇が〈内実〉なき象徴(権威)であるのは、それが外的な「権威」を起源としていることの証明と言えるでしょう。
西洋現代思想の日本受容も同様の道を辿っているだけのことで、そこには思想的〈内実〉などはなく、ただ利権構造があるだけなのですが、
批判的視座のない現代思想オタクはそのことが理解できずに利権崇拝に加担しています。


クリスマスやハロウィンを見ればわかるように、日本化した〈内実〉なき海外文化は端的にファッションでしかありません。
海外の「事情通」がヨーロッパの最新ファッションを紹介し、日本人はそれをアレンジしてモノマネをする、
それを何かクリエイティブであるかのように喧伝したい、
そんな卑屈な欲望に常に多くの日本人が動かされています。


現代思想に関していえば、単なる海外思想の「紹介者」でしかない三流学者が、海外の権威によるものを自身の能力であるかのように錯覚して「哲学者」とか「思想家」とか名乗っています。
つまり哲学研究者と哲学者の間には明確な区別がないのですが、
文学研究者が「作家」などと名乗ることがないことを考えると、「思想家」というものは本来「肩書き」ではないのだとわかります。
もともと思想というのは商売から縁遠い、プロの存在しないジャンルなのではないでしょうか。
(だからこそ思想分野の無能な研究者ほど能力ある在野の知識人を貶めたがるのだと思います)
研究者が「肩書き」をお墨付きとして思想を牽引している顔をしていることじたい、反思想的な営みだと考えるべきです。



『ハーバーマス』(ちくま学芸文庫)中岡 成文 著

対話を重視するドイツ戦後思想の旗手

ハーバーマス思想の概説書で手近に入手できるものは多くありません。
実践的な社会理論であり、政治的でもあるため、日本では非政治的で非主体的な〈フランス現代思想〉より圧倒的に人気がありません。
モラトリアム的な〈フランス現代思想〉が若者やサブカルと相性が良く、オタク相手に「商業的に」成功したのに対し、
ハーバーマスやフランクフルト学派などの社会関係性を重視する思想は、「岩波的」左派知識人のものとして敬遠されたのでしょう。
僕が以前に読んだハーバーマスの概説書は、講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズでした。
買うときに気づかなかったのですが、増補版ではあるものの実は本書はその本を文庫版にしたものでした。
やっちまった。


しかし、あらためて読み直してみると前回に読んだ時より圧倒的に収穫がありました。
2003年刊行時に本書を読んだときには、ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論は理想を追いすぎて現実性に乏しいために、僕はあまり魅力を感じませんでした。
著者の中岡も大学時代に「ハーバーマスやきまじめなドイツ哲学・思想にあきたらず、フランスのポスト構造主義の軽快さ、警抜さに魅惑された」と自らの「回り道」について語っています。
僕は若い頃から一貫して〈フランス現代思想〉には否定的でしたが、それでもハーバーマス思想の重要性については若い時には理解が及ばなかったのです。


本書の副題に「コミュニケーション的行為」とあるように、ハーバーマスは対話を重視した人です。
彼が論争した相手はガダマー、ルーマン、デリダ、フーコーなど錚々たるものですが、このような論争を好む態度もコミュニケーション志向の現れと言えるでしょう。
日本では(僕の実体験を踏まえてみても)論争的な態度があまり好まれているとは思えませんが、それは西洋からすれば言語によるコミュニケーションに対して消極的な国と映ることでしょう。
僕が生きている期間の日本社会だけを考えても、論争がどんどん少なくなっていると思います。


そもそも思想や文学の世界はモノローグになりがちです。
ハーバーマスがコミュニケーションを重視するのには、〈フランス現代思想〉とは違うかたちでモノローグ的形而上学を(解体ではなく)批判する意図があったと思います。
特に日本では対等なコミュニケーション能力に欠けた人が、自己慰撫を目的として思想や文学に手を出すケースも多く、その代表のようなオタク(学者)がちょっと社会に認められると、権威を傘に着た態度に出ることが目立っています。
最近話題のマルクス・ガブリエルがハーバーマスから何の影響を受けていないはずもなく、彼をきっかけに日本でもハーバーマス思想がもっと見直されるといいと思っています。



現実逃避に俳句を利用するペテンの危険性

岐路に立つ俳句商業誌

俳句人口のうちのどれほどがシニア層になるのかわかりませんが、
世代ごとに俳句人口比率をわざわざ出さなくても、40代が「若手」と呼ばれる世界が高齢層に支えられていることは明白です。
つまり俳句界で商売をするには高齢層への目配りが必要になるのは今さら言うまでもないことです。
もっとマクロ的な話をすれば、テレビ番組の構成を見るまでもなく、日本全体においてマーケティングの関心が主に購買力のある高齢層になっています。
加えて出版という旧メディアに親しんでいるのは高齢層です。
このような事実を考えれば、俳句で商売を考えた場合、どうしたって高齢者を相手にしなければならないことになります。
出版市場に存在する俳句商業誌のほとんどが高齢層の購買によって支えられているのは間違いのない事実でしょう。


しかし、高齢の人は若い人より安定的な顧客とは言えません。
生物としての必然からより逃れ難いところにいるからです。
30年もすれば僕自身が立派な後期高齢者なのですから、僕より上の世代の方がどれだけ「現役」でいられるかは怪しいと言わざるをえません。
そうなると商売の安定化のためには若い顧客がある程度必要になるのですが、そこに一つ大きな問題が存在するのです。
高齢層と若い層とでは俳句に求めているものがかけ離れているということです。


ものすごく簡単に二分化してしまうと、
形式を固定化して日常実感や目に映った風景を俳句にすることが俳句だと考える高齢層(プレバト含む)と、
実感より詩的表現をめざすその裏で自己承認を求めて「作家」であろうとする若い層という感じでしょうか。
実感共有派と詩的ファッション派というふうにとりあえずはくくってみますが、
念のため僕はどっちも文学とは言いにくいと思っていることを表明しておきます。
ただ、どちらかというと詩的ファッション派には自らが高尚であると錯覚して偉そうにしている不愉快な俳人が多いとは思っています。


商業俳句誌の立場に立てば、現状のメイン購買層である高齢層を無視する紙面づくりはできません。
かといって、未来の読者にそっぽを向かれるのも困るので、詩的ファッション派の若い層にも目配りする必要があります。
その結果、「注目の若手」特集のようなものを企画して、ウケがいい人を適当に起用するということに落ち着きます。
「ウケがいい人」が誰に対してウケがいいのか、という問題もあるのですが、とりあえずそういうことをやっておけば、編集者としてはやることをやっている気分になれるわけです。
僕がここ数年の俳句商業誌を見たかぎりでは、このような発想を越えた内容があったようには思いません。



柄谷行人のポストモダン批判【その2】

ポストモダンという保守思想

前回に引き続き、柄谷行人のポストモダン批判について書いていきます。
柄谷は日本のポストモダンが、実は江戸時代の文化文政期や戦中の「近代の超克」の焼き直しであると述べています。
それについて見ていく前に、僕の〈フランス現代思想〉批判と柄谷の見解の共通点について再度確認しておきたいと思います。


僕は〈フランス現代思想〉の日本での受容が消費資本主義と歩調を合わせたものでしかなく、ポピュリズム的な「サブカル的転回」を果たしたのち、ナショナリズムに奉仕する結果になったと思っています。
このことについて柄谷がどう考えているかを探ってみると、1984年発表の「批評とポスト・モダン」という論考で、
ポストモダニズムが消費社会の論理を再生産するというフレドリック・ジェイムソンの主張を引用してはいるのですが、柄谷自身は「両者は基本的にちがっている」とあまりその考えに乗り気ではありませんでした。
しかし、2001年の『トランスクリティーク』の序文では、それが資本主義的な運動の代弁でしかなくなったことを認めています。
以下に引用してみましょう。


私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考──私自身それに加わっていたといってよい──が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。九〇年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコンストラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。

ディコンストラクション(脱構築)は〈フランス現代思想〉のポスト構造主義の代名詞のようなものです。
柄谷はそれがソビエトなど社会主義陣営が健在なときにだけ意味を持ったと言っています。
僕も消去されたAmazonレビューのコメント欄で、〈フランス現代思想〉はスターリン批判を背景にしたものでしかなく、今は北朝鮮にでも行って主張する以外に価値はないと書いたことがあります。
本当に似たようなことを言っていたんだな、と思います。
(そして、そう主張する僕が今でもマイノリティである以上、柄谷のポストモダン批判はどこかで誰かに握りつぶされたということになるわけです)


このあと、柄谷の文章は次のように続きます。


懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義・サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。

僕の言うことなど聞かなくても良いですから、未だに〈フランス現代思想〉などのポストモダン思想に価値があると勘違いしている人たちは、柄谷のこの文章をよく読んでから発言してほしいものです。
現代のポストモダン思想は全くもって保守的なものでしかないのです。
そのため、ポストモダンに乗っかった人間は案外簡単に保守へと鞍替えすることができるのです。
加えて言っておくべきことは、柄谷の言うポストモダン思想が「当初もっていた破壊性」というものは、日本において発揮されたことは一度だってありません。
本家の西洋に対して破壊性を持つ思想というだけのことで、日本においては歴史上に何度も登場した「よくある発想」でしかないのです。



柄谷行人のポストモダン批判【その1】

利権を超えられなかった柄谷のポストモダン批判

僕はAmazonレビューで〈フランス現代思想〉を俗流化した日本のポストモダン受容を批判してきました。
それに対し、千葉雅也や石田英敬、清水高志などの〈フランス現代思想〉系の学者などからツイッターで悪口を言われたのですが、
最近柄谷行人の著書を読み直してみたところ、僕が批判したような内容はすでに90年代に柄谷行人がすでに指摘していたことと重なっていたことがわかりました。
千葉雅也は僕を「ポストモダン嫌い」として貶めることに必死でしたが、さて、彼は同じことを柄谷行人にも言えるのでしょうか。


僕が権威を後ろ盾にせずに自説を展開していたのをいいことに、自らの不勉強を棚に上げて悪口を言う人の頭の悪さには同情を禁じ得ませんが、
せっかくなので僕と柄谷の見解が近いことをここで示しておこうと思います。
(もちろん、僕と柄谷の見解には異なる部分もあります)
しかし、柄谷のポストモダン批判は驚くほどに現代思想界隈では共有されていないのですね。
これは柄谷自身がポストモダン思想の導入に関係したため、あとになってそれを批判する作業に勢いがなかったということもあるとは思いますが、
当の柄谷自身にポストモダン批判に対する熱意が足りなかったことが最大の要因だと思います。
その後に20年以上もポストモダン思想が隆盛をきわめたこと、そして現在に同様の批判をした僕がどのような立場にあるかを考えれば、当時の柄谷の批判に耳を傾ける人はそれほどいなかったことが想像できます。
実際、柄谷のポストモダン批判を受け継いだ人は皆無だと言って良いのではないでしょうか。


僕は〈フランス現代思想〉に代表されるポストモダン思想が日本のナショナリズムを強める結果になったと思っています。
ざっくり説明すれば、ポストモダン思想は西洋近代を批判するものです。
つまり、西洋にとってみれば「自己反省」を意味することになるはずなのですが、
そもそもの〈フランス現代思想〉にも「反省」の姿勢があったかどうかというと大いに疑問が残ります。
というのも、結局はただのパラダイムシフトでしかなかったと思えるからです。



『操られる民主主義』(草思社)ジェイミー・バートレット 著/秋山 勝 訳

デジタル・テクノロジーが社会を破壊する?

本書の著者のバートレットはイギリスのソーシャルメディア分析センターのディレクターなので、インターネットの専門家と言えると思います。
原題の直訳が『「国民」対「テクノロジー」:インターネットはどうやって民主主義の息の根をとめるのか(そして、いかにして民主主義を救い出すのか)』となるので、
デジタル・テクノロジーによる社会変化の負の側面を主に取り上げた本と言って良いでしょう。


本書はインターネットやAI、ハイテク企業の問題点を的確に指摘しているのですが、僕自身は驚くような恐怖が描かれているという印象は持ちませんでした。
日本の民主主義がイギリスより未熟なせいなのかもしれませんが、インターネットの存在とは関わりなく、大衆などそんなものだと思っているのかもしれません。
しかし、このような本を読むときに、人間がそうなるのはテクノロジーのせいなのか、そもそも人間とはそういうものなのではないのか、と疑っておくことは重要だと思います。
穏当な結論は、人間はもともとそういうものだが、インターネットはそれを増幅している、というものでしょう。
この発想は多くの人が受け入れやすいものでしょう。


テクノロジーは人間を安楽へと誘導します。
もう我慢しなくていいんだよ、と甘言を弄して、僕たちの行為への敷居をどんどんと低くしていきます。
こうして書いたものが人の手に渡るとき、大昔はすべてを書き写す労苦がありましたが、印刷術の発達によって大幅に作業が短縮されるようになり、インターネットによってとうとう即時的に世界中に発信することができるようになりました。
考えてみればおそろしい進歩ですが、僕たちはすぐにテクノロジーを自らの能力の拡張として把握してしまう、つまりは慣れてしまうのです。



平気でデタラメを書く仲正昌樹というアカデミズムの恥部

論理を操れず罵倒するだけなのに「学者」を名乗る売文屋

先頃、金沢大学教授の仲正昌樹が講談社現代新書から『ヘーゲルを越えるヘーゲル』を出しました。
仲正は〈フランス現代思想〉を専門にしているとも思えない(彼の留学先はドイツです)のに、フランスのポストモダン思想関連の本をたくさん出しています。
まともなアカデミシャンなら到底ありえないことですので、現代の売れ筋の思想に媚びて本を売っている売文屋であると僕は思っています。
(この人の専門的な思想書を本屋で見かけたことがあるでしょうか。それよりも参考書的な講義録みたいな本ばかり出している印象です)


最近、仲正は上述したヘーゲルと題した本を出したのですが、〈フランス現代思想〉は基本的に反ヘーゲルの立場だけに、これまで仲正が扱ってきた〈フランス現代思想〉とは立場がだいぶ違います。
「越える」と書いたところでヘーゲルを基軸にした本ではあるわけですから、やはり節操がないと感じるのは当然ではないでしょうか。
マルクス・ガブリエルの著書のセールスが好調だったことで〈フランス現代思想〉の旗色が悪くなってきたために、ドイツ思想を看板にしてアピールするという売文屋らしい変わり身への意志を感じました。
そこで僕は仲正の軽薄さを批判するツイートをしたのですが、それに対して仲正が明月堂書店とかいうよく知らない出版社のブログで僕への文句を書いていたのを発見しました。
それがきちんと反論をするでもなく、単に僕に対して「バカ」とか「おバカ」とかを連発するだけの罵倒で構成された上に、ネット経由で得たであろう誤った情報を垂れ流した内容だったのです。
「月刊極北59回」の仲正の文章の中から僕について書かれた部分を以下に引用します。


  最近出した拙著『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)に対して、「南井三鷹」というバカが、読みもしないで、タイトルと、著者である私についての雑な印象だけで、失礼な決め付けツイートをしていた。この男は以前「佐野波布一」を名乗り、千葉雅也氏を主要ターゲットにして言いがかりをつけていた。例えば、千葉氏を中心に編集された雑誌の現在思想系の特集を読みもしないで、駒場人脈の書き手ばかり採用している、千葉一派による思想論壇の支配に反対する、というようなことをamazonレビューなどに書いて、悦に入っていた。かなり狂っているが、自分だけは論壇・文壇のために戦う闘士のつもりのようである。そのおバカの三鷹曰く、

反ヘーゲルのフランスポストモダンにすり寄って商売していた仲正昌樹が新たにヘーゲルの新書を出したようだ。こういう信念のない商売人の本を支持する人に思想の素養はない。

そして出版社はいつまでもこういう寄生虫が大好きだ。なぜずっとヘーゲルを研究してきた人に本を書かせないのか。内実のない本を出版して人々を愚民化している出版社よ、罪を数えろ。

 こういう低レベルの人を起用するならネットでいいじゃないか。出版社はもっと高付加価値なものを高値で売る西欧のブランドのような商売をしないとネットに飲み込まれるだけだ。

  この三つのツイートだけで、この男が逆恨みの権化であること、出版業界に関して非論理的な妄想を抱いていること、および、「思想史の基本が全く分かっていないこと」を、自ら暴露してしまっている。バカの三鷹は、佐野波布一時代に、吉本隆明の専門家を装っていたが、この調子だと、吉本の主要テクストのどれ一つとして理解していないだろう。「方法論」を学ぶ意義が分からないまま、学者の世界のことについてああだ、こうだと言っていると、こういうどうしようもない廃棄物になってしまう。

とまあ、こんな具合なのですが、この文章を読んでみて、どうして僕が「バカ」と言われなければいけないのか、誰か理解できる方はおられるのでしょうか?
僕には全くわかりません。
仲正がヘーゲル以降の思想家を扱っていようが、僕がツイートで文句を言ったのは「ヘーゲル本」の体裁で著書を出版した態度についてです。
僕はタイトルを中心として批判しているのですから、「タイトルだけで」と文句を言うのは的外れもいいところで全く反論になりません。
題名に「ヘーゲル」とつけたくせに、内容はヘーゲルと関係がないとでも言うのでしょうか。
(というか、ヘーゲルの現代思想への影響という本でしたけどね)
これはヘーゲルの本ではない、とか、フランスポストモダンにすり寄っていない、と反論するでもなく、はたまた、自分はずっとヘーゲルを研究してきた、と強弁するでもないのに、どこについて僕をバカ扱いしているのか意味がわかりません。



『海の音』 (朔出版) 友岡 子郷 著

真摯さは才能に勝る

これは句集に限ったことではありませんが、文学作品を読むと、書いたその人と会ったこともないのに、まるでその人と親しくつきあっているかのように思えることがあります。
親しく付き合えばその人の良い面も悪い面も知ることになるのですが、そのような理解の上で作品を読むと、書いた人が作品上で実現したがっていることも理解できるようになります。
それが真摯に文学的なものに奉仕しているのか、それともただ功利的な自己愛に根ざしたものなのかを僕は重視しています。
文学には才能というものも当然あると僕は思っていますが、僕自身の批評的評価においては才能が真摯な思いに勝るとは思っていません。
一般に才能があると思われている人を僕が批判するときは、その人に文学的な真摯さが欠けているからだと判断していただいて結構です。


このような前置きを書いたのは、今回取り上げる友岡子郷の句集には目立った才気のようなものは感じないのですが、俳句に対する真摯さがあふれているからです。
僕はこの句集を読んだ時に友岡その人に対しての予備知識は全くありませんでした。
(おそらく相当に年配なんだろうとは想像していましたが)
句集を読むにつれて海の近くに住んでいることや奥さんを先に亡くされたことなどが想像できるようになりました。
文学作品は否応なく書いた人の人生と結びついてしまうのですが、そこから逃げないことが文学に対する第一の姿勢であることを確認させられました。
そう、文学には人生があるのです。
だから個々の作品が独立して語られるのではなく、「作家」や「詩人」というかたちで記憶され語られることになるのです。
自分の貧しい人生から逃避するためにイメージや言葉をこねくり回しても、文学にも詩に結実しない徒労でしかないのですが、
商品化ファシズムを生きる高度成長期以後の世代はそのことを自覚することもないまま、文学と商品の区別もつかずに人生を終えていくことになる運命にあります。



作品所有の欲望について

「基本的歌権の尊重」という批評殺し

まずは、あきれた話。
短歌ムック「ねむらない樹」というのを適当に眺めていたら、批評を殺したがっている若手歌人がいることを知りました。
「ニューウェーブ30年」というシンポジウムで人気歌人の穂村弘が語った話なのですが、
穂村は「基本的に若い人の方の考え方が正しいという発想」だと宣言しつつ、自分の批評が若手の寺井龍哉から「そういう批評はいまは無しなんですよ」と言われて困惑したというものです。


穂村はこの若手の言い分を、書かれた歌にはそれだけの理由があるから、最大限リスペクトして批評する必要がある、という「基本的歌権」みたいなものと理解しています。
僕はこの「基本的歌権」という穂村の言葉には皮肉があるように感じましたが、寺井自身はまったくそうは感じなかったようで、同誌の短歌時評でこう書いています。


それぞれの作品の背後には固有の必然性があり、評者の後追いのさかしらでは推しはかりきれないのものなのではないか、というのは、穂村が前出のシンポジウムで私との対話をもとに提示した「基本的歌権の尊重」なる新語の指す事態である。(原文ママ)


この文章で寺井は、言葉を「個人個人の間で断絶的に所有されるものであるという発想があるのかもしれない」と述べたあとに、服部真理子の文章を例として挙げ、
「言葉は誰のものでもない」と否定的な見解を述べて、批評を「無し」にする態度は自分自身のものではないという書き方をしています。
寺井が(口では)言葉は誰のものでもないと言っていますが、では短歌作品はどうなのでしょうか。
作られた短歌は誰のものでもない、とは寺井は書きません。
穂村の語るエピソードからすると、「基本的歌権」を穂村の意見であるかのように書いている寺井の文章にはどこか欺瞞があるようにしか思えないのですが、
その意見が誰のものであれ、短詩系の作者の一部が批判的な批評をつぶしたがっていることは僕の実体験からもまちがいないと言い切れます。
そこには、作品を自分自身の代理物として、たとえヘタクソでも尊重してほしい、という「甘え」が見え隠れしています。



『カントの「悪」論』(講談社学術文庫)中島 義道 著【その2】

定言命法と仮言命法

中島義道のカント読解の続きです。
前回はカント倫理学が「誠実性の原理」という理性のはたらきによって成立しているという中島の主張を確認しました。
しかし、自己愛に基づく「幸福の原理」の声の大きさの前に、理性の声はかき消されがちだとカントは言います。
カントは自己愛と理性を比べたときに、易きに流れる人間が自己愛という「悪」へと傾くことをよく自覚していました。
理性信仰に基づく倫理学をカント自身が「危うい立場」と語り、脆いものとして捉えているのはそのためなのですが、
中島は「カント倫理学の真価は、まさに倫理学の危うさ、道徳的善さの危うさ、人間存在の危うさをしっかり見据えているところにある」と言います。


さて、理性の声に従って道徳的な善を実践するには、自分の意志から行う主観的な行為に客観的な普遍妥当性がなくてはなりません。
主観的な行為を普遍的なものへと格上げしていくことが、カント哲学の中核と言ってもいいのではないかと思います。
この昇格の手続きをカントは「定言命法」というかたちで成立させようとします。


定言命法と比較されるものに「仮言命法」というものがあります。
仮言命法は「約束を守る」などの格律を「嫌われたくないから」などの別の目的のために遂行するあり方を言います。
しかし、定言命法はそのような条件なしに「約束を守る」という格律を遂行するというもので、ただ理性に従ってすべきことを行うというところに特徴があります。