南井三鷹の文藝✖︎上等

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ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その1】

誤解された思想家

ポール・ヴィリリオの名前を聞かなくなって久しいですが、2018年に亡くなったことで、ますます過去の人になろうとしています。
日本ではヴィリリオの翻訳書が多いわりに、ヴィリリオに関心を持つ人はあまり多くありません。
人気の〈フランス現代思想〉に属しているわりに、そもそも概説書がほとんどないですし、
翻訳者のほとんどがいわゆる有名大学の研究者ではありません。
おそらくヴィリリオが建築家であり、アカデミックな研究者でないことが影響しているのでしょう。
そんなマイナーな存在なのに、日本でヴィリリオの翻訳書が多いのは、
日本で大人気のドゥルーズ=ガタリの双方と交友関係を持っていたからだと思います。
ヴィリリオはドゥルーズ=ガタリの著書で言及されているだけでなく、ドゥルーズと個人的な付き合いもあった人です。
ガタリとは一緒に自由FM放送局「ラジオ・トマト」を立ち上げています。
しかし、僕自身はヴィリリオを読んでいた時に、ドゥルーズ=ガタリを意識することは全くありませんでした。
日本のドゥルーズ学者がヴィリリオに特別な関心を抱いたこともなかったと思います。



千葉雅也に見るポストモダンの権力構造【付録】

ポロリ必至の「放言だらけの大座談会」

さて、ここからは特別コーナーです。
ポストモダン的主体についてはだいたい総括できたので、その代表たる売文研究者と癒着した「現代思想」という雑誌の「放言だらけの大座談会」を楽しむことにしましょう。
(そこのお父さん、不用意な発言がポロリすることもありますよ!)


ポストモダンの相対主義が、たった一つの現実や真実をいたずらに複数化し、真実の価値を貶める「ポスト・トゥルース」状況を生み出したことは、
利権から自由な知性を持つ人なら誰でも思い当たる事実です。
この事実を認められないのは、ポストモダン思想を生業にしているポストモダン研究者やポストモダン作家だけなのですが、
青土社はわざわざそのような「抵抗勢力」を集めて、放言だらけの居酒屋談義レベルの座談会を一般商業誌に掲載しています。
全体的に読む価値がない特集なのですが、今回は千葉雅也が参加した「現代思想」2021年6月号の座談会を取り上げて、
僕が定義したポストモダン的主体の有り様を実践的に確認してみようと思います。
(※真実を提示することを「ゲス」だと感じるセンシティブな方は、この先を絶対に読まないでください)



千葉雅也に見るポストモダンの権力構造

権力化した旧メディアの落日

2021年の現在、東京オリンピックの開催が迫る中で、新型コロナ(COVID-19)の感染状況の悪化が続いています。
思うような経済活動ができない人も多く、失業も増えていますが、日経平均株価は近年にない高値をつけています。
つまり、実体経済の現場は不況に苦しんでいるのに、金融経済だけはバブルの好景気にあるのです。
このような状況を端的に表現するならば、「階層分断」ということになると思います。
新型コロナの猛威は、日本社会で広がりつつあった経済格差の問題を、階層分断にまで高めつつあると思います。
しかし、この階層分断は単純な経済格差にとどまりません。
生活の現場である「現実」と人々の社会ネットワーク上の〈思念現実〉との分断が進んでいるのです。


このような「人間の生活現場」と「資本のネットワーク」の階層分断は、あらゆる場面でヴァリエーションを変えつつ再生産されていくことになります。
たとえば世代間格差です。
とりわけ人間を相手にする接客業は新型コロナの影響をもろに受けていますが、接客業で働く人たちは主に若い世代です。
それに対して「資本のネットワーク」に属するテレワーク世代は中堅世代が多く、さらに年金世代になれば大部分ステイホームが実現できるわけです。
それが旧メディアと新メディアとの分断を後押ししています。
テレビなどのステイホームメディアは高齢者ばかりが見るようになり、出社する世代はモバイル端末を見ることになります。
テレビや出版などの大手マスメディアは、もう10代20代の人たちにとって価値基準になる重要な情報源ではなくなってきています。
このままでは旧メディアは将来的に消滅することになるでしょう。
旧メディアは既存のお客さんをとどめる以外に手段がないので、旧世代の人々にウケるものを提供していきます。
その結果、旧メディアは「大本営発表」と「ノスタルジー」という商品しか提供できなくなってしまいました。



俳句の終わりを考える【後編】

河東碧梧桐という「詩人」の亡霊

俳句はクリエイティブでもなければ、アートでもない、と僕は言いましたが、
何も俳句をけなしているわけではありません。
そんなものがなくても俳句は立派に文学として存在できます。
俳句には俳句の道があるのですが、なぜか最近の俳人は俳句にコンプレックス(隠キャ!)があるらしく、
俳句でありながら俳句でないものとして見られたい、という青臭い我儘に膠着してどんどん作品の質を下げています。
俳句として見られたくないなら、俳句雑誌や俳句番組になど出て来なければいいと思うのですが、
前述したように、彼らは本質的に業界のインフラに依存しないで売り上げを稼ぐことができない新フレーバー製品なので、旧製品の販売ラインから外れることができないのです。
このような試みが何か生産的な結果を生むはずもないのですが、クリエイティビティと無縁な俳人は本質的な業界批判ができない人ばかりなので、
出版メディアの没落に付き合って、文学としての俳句文化も没落させてしまうことになりそうです。
まあ、本当に没落するまで僕の言うことなどわからないのでしょうし、僕自身は不愉快な目に遭わされた業界なので、勝手にすればいいと思うようになりました。



俳句の終わりを考える【前編】

ジャーナリズムと一体化した文学

僕は俳句を作ることはありませんが、ある不愉快な事件から俳句を学ぶようになりました。
「週刊俳句」というサイトで生齧りの現代思想を身勝手に用いる某俳人を批判したら、当人が応じることを避けるだけでなく、代わりに仲間が不愉快なコメントをしてきたのです。
彼らは自分たちが現代思想をきちんと学ばずに適当なことを書いているくせに、
その批判をした僕に「俳句をやらないなら謙虚でいろ」などと言ってきました。
そんなに偉そうに言うなら、彼らの土俵で論戦してやろうと思って俳句を学んだのですが、
その結果わかったことは、彼らは現代思想どころか俳句についても生半可な知識しか持っていなかったということでした。
俳人の多くはアーティスト気分で俳句を作ることには一生懸命なのですが、案外俳句や俳句史をたいして勉強していないのです。
そのため俳人は自分のアラがバレないように、互いに批判をすることがタブーになっています。
批判は裏アカウントやエアリプで行われ、それほどでもない句であっても表面上は過剰に褒め合う「挨拶」が客観評価として流通する有様です。
批判をする人間は非礼であり悪である、という通念が俳句の世界にはあるのです。
それだけではありません。
当時の「週刊俳句」周辺にいた俳人は、俳句をやっていない人間を差別しておきながら、今や俳句の勉強が必要ない「わからない」俳句を褒めることに執心しているのです。
しかし、こういう連中を出版やマスコミなどのジャーナリズムがありがたがって起用しているのも事実です。
どうしてこんな事態になってしまったのでしょうか?



『人新世の「資本論」』(集英社新書)斎藤 幸平 著

新書大賞という「売り文句」

斎藤幸平の論考やインタビュー本を、僕はだいぶ前から何度か取り上げています。
彼は大昔に僕のAmazonレビューについて千葉雅也とTwitterでやりとりしているので、僕のことも記憶の隅には残っていると思います。
そんな昔馴染みの斎藤の著書『人新世の「資本論」』(2020年)が、今年の新書大賞の第1位に選ばれたというニュースを知って、
発売当初に購入したまま放っておいた本書を読むことにしました。
なぜ今まで読んでいなかったのかというと、僕はすでに斎藤の書いた専門論考をいくつも読んでいるので、だいたい内容が想像できるからです。



〈ネットワーク型権力〉と消費社会【後編】

還流する視線の非対称性

ヴェーバーが明るみに出した禁欲的プロテスタントの精神では、神の恩恵の確証を自らの倫理的行動の客観化(=可視化)によって示す必要がありました。
ここでの可視化は救済を受ける者であることを証明する動機で行われています。
しかし、パノプティコンで可視化されるのは、監視される囚人です。
可視化ということで、救済される者と囚人を重ね合わせてしまうと、
幸福なはずの救済者がまるで神の囚人みたいではないか、と思う方もいるかもしれません。
ぶっちゃけて言えばそういう解釈でもいいのですが、実際はもう少し複雑なメカニズムがあるので、それを説明します。



〈ネットワーク型権力〉と消費社会【前編】

文化という「兵器」

当たり前のことですが、ある作品が多くの人からの支持を受けるためには、それを多くの人に広める力が必要です。
とりわけ短期間で一気に広める場合、その時代の政治権力や大衆権力(=マスメディア)を利用しないわけにはいきません。
同時代的に評価を受けた作品には、その時代の権力との蜜月が色濃く刻印されているものです。
作品は時代の代弁者として評価され、時代に後押しされると同時に時代に強く拘束されます。
芸術や文学にそのような同時代性を超えることが求められるのは、
その時代の権力のパワーに頼ることなく、その作品そのものにパワーがあることが成立の条件になっているからです。
権力との関係が作品評価にとって本質的でないと考えるならば、
時代的刻印をきれいに取り去った後に残ったものだけを、作品評価の基準にするべきだということになります。



ポストモダンの肖像──鴇田智哉『エレメンツ』(素粒社)を読む【後編】

メタ視点を居場所にする文学はいらない

消費資本主義における超越性は、アイロニーによってメタ的な視点に立つことで擬似的にヽヽヽヽ達成されます。
このメカニズムを詳しく説明するのは、別の記事に譲りますが、
『資本論』の価値形態論を参照すれば、貨幣というものが全ての商品に対してメタな位置にあることがわかるはずです。
なぜなら、貨幣とはオブジェクトレベルにある商品群から、特定の商品(=金)だけを疎外して、すべてを媒介するメタな位置に置くことで成立したものだからです。
このメカニズムが貨幣を持つ者を、メタ的な位置へと押し上げます。
それは、マーケットに存在するあらゆる商品を、自分の「好き嫌い」で自由に選び取ることができる大富豪のポジションです。
商品すべてを俯瞰しうるメタ視点は、もともと大富豪にだけ許されたものだったわけですが、
メディア技術の進歩によって、たいして金持ちでもない人にも擬似的にヽヽヽヽそのような気分が得られるようになりました。
なにしろ自分の持ち金と関わりなく、インターネット上であらゆる商品を見渡して好きな商品を探すことができるのですから。
アメリカの貧乏人がどうしてトランプと一体化していられるのか不思議に思った人がいるかもしれませんが、
インターネットというメタ的な視点によって、いつのまにか気分だけ大富豪に近づいているのです。



ポストモダンの肖像──鴇田智哉『エレメンツ』(素粒社)を読む【中編】

作為のためにある俳句

さて、気が進まないので前置きが長くなりましたが、仕方ないので『エレメンツ』を読もうと思います。
シンプルに疑問なのですが、鴇田を褒めている人の中で、この句集を真剣に読んだ人はどのくらいいるのでしょうか?
なにしろ作者が優位な位置で楽をしているため、読者の方にとんでもない「労働」を強いてくる句ばかりなのです。
おそらく、この句集を褒めた人は、鴇田の句を手前勝手に解釈して遊んでいるだけで、ちゃんと読もうとしたことがないのだと思います。
(関悦史など俳句業界の啓蒙宣伝大臣として、大げさな言葉で内輪の俳人を気持ち悪いくらいに褒めちぎりますが、鴇田の句を全然まじめに読んでいないですよ)
まあ、俳人が俳句をきちんと読まないことは今に始まったことではありませんので、僕は別に驚きません。