南井三鷹の文藝✖︎上等

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ポストモダンの肖像──鴇田智哉『エレメンツ』(素粒社)を読む【前編】

1968年という「切断」

長らく俳句界では「若手俳人」の新傾向の俳句がブームになっています。
背景には、60代以上の高齢俳人の活躍が目立つ俳句業界の著しい高齢化があります。
ブームの発端となった、若い俳人のアンソロジー句集『新撰21』(2009年)がすでに10年以上前になります。
そのアンソロジーで名を馳せた若手俳人たちの多くは、その後も順調に評価を受け続けています。
有望な若手俳人が数多く登場することが「業界の利益」を持続させるため、業界人の評価は自然と甘くなります。
同年代が横並びで(集団的に)出世していく彼らのありようは、まるで戦後の高度経済成長を見るようです。



文化の骨について

韓国映画の快進撃

この前、地上波で韓国映画『パラサイト 半地下の家族』が放映していたのにたまたま気づいて、だいたい3分遅れくらいで見始めました。
実を言うと僕は映画嫌いです。
正確に言えば映画館ヽヽヽ嫌いなのかもしれませんが、
どうにも映画を見る意欲に乏しく、普段は目についたものをテレビで流して見るくらいなのですが、
さすがに『パラサイト』は、カンヌ国際映画祭でパルムドールに選ばれ、第92回アカデミー賞で作品賞をはじめ4部門を制覇した名作です。
暇があったら見てしまうものではあります。
たいした期待も持たずに見始めましたが、早めから観客を引き込むような巧みな作りで、最後までおもしろく見てしまいました。
僕はその程度の観客なので、映画にも詳しくありませんし、ポン・ジュノ監督の他の作品も全く知りません。
(後で調べてみたら、『グエムル 漢江の怪物』はCMを見た記憶がかすかにありました)
でも、この作品を見たら少し言ってみたいことが出てきました。


韓国に対する好き嫌いは別として、ある程度客観的な目で見ていくと、
映画やドラマに関しては、日本より韓国の方がクオリティの高いものを作っていると思います。
僕は以前に韓国の恋愛ドラマがなぜ日本の恋愛ドラマよりおもしろいのかを文章にしたことがあるのですが、
今やそこで書いた韓国ドラマのエッセンスを日本のドラマも真似するようになっています。
NiziUなど、グループアイドル界でも韓国の方法論を日本が後追いしているのが現状です。
(日本のアイドルにはBTSのようにビルボードで1位になる日は来ないでしょうが)
僕は読んでいないのですが、書店の外国文学の棚を見ているだけでも、韓国作家の本が増えた気がします。
マンガやアニメに関しては、まだ日本がリードを保っていると思いますが、
市場の狭いところで勝っているだけにも思えます。
まあ、この種の議論は感情的になる人もいるでしょうから、客観的評価というより僕の個人的感想ということでも構いません。
どんなに国内で大声を出しても、国際評価がついてこなければ虚しいだけですけどね。



芸術疎外論【その4】後編

敵対性を前提とする一神教思想

ヘーゲルの共同体において、否定性を介した「反省」というプロセスが重要であることはすでに確認したとおりですが、
この否定性の導入のことをヘーゲルは「疎外(Entfremdung)」や「外化(Entäußerung)」という言葉で示しています。
法律用語のEntäußerungは財産などの「譲渡」を意味する語です。
ここから個人の意志を権力へと「委譲」する意味で用いられることもあるようです。


疎外の概念が登場するのは、古代ギリシア的な人倫共同体が没落して、ローマ帝国になぞらえられる「法支配」が成立するようになってからです。
そのプロセスに軽く触れておきます。
共同体は他の共同体を排除して独立を保ちます。
その戦いに備えて、共同体は自らの内部をワンチームにしようと「個体が個別化することを抑圧する」ことになります。
なぜなら、ポリス的な人倫共同体にも共同性と個別性の葛藤は存在するからです。
ヘーゲルがそれを男性原理と女性原理、年配者と若者の葛藤として描いたりするのも興味深いのですが、
祖国防衛戦争に突入すると、共同性の原理が強まって個別性を否定していく結果になります。
しかし、それが皮肉な結果を導きます。
祖国を守るのは若い個別の兵士たちです。
共同体の維持という仕事が、命を賭けた若い兵士の個別性をかえって輝かせることになってしまうのです。
こうして生き生きとした人倫的な共同性は没落し、個別的な個体が生き生きとする普遍的な共同体が成立します。
これを『精神現象学』では「法支配」の状態と呼んでいます。



芸術疎外論【その4】前編

「他者」を否定するオタクたち

前回はヘーゲル『精神現象学』の「自己意識」の章に出てくる「不幸な意識」を中心に見ていきました。
不幸な意識ではキリスト教の精神が描かれていたのですが、
そこでは理念と現実、彼岸と此岸に分裂した意識を統一することが課題でした。
分裂した両者は「媒語」によって、いったん推論的に結合されて、次のステージである「理性」へと至ります。
「理性」の章は割愛しますが、その後には「精神」へと段階的に発展していくことになります。
『精神現象学』で疎外が語られるのは、「精神」の段階になってからです。


理性が精神となるのは、「いっさいの実在性である」とする確信が真理ヴアールハイトまで高められたときである。つまりその場合の理性は、じぶん自身をみずからにとっての世界として、また世界をじぶん自身として意識することになる。(ヘーゲル『精神現象学【下】熊野純彦訳)

長谷川宏は『ヘーゲルを読む』(1995年)で、ヘーゲルの「精神」を人間が集まって作る共同性だとして、
「精神はそういう共同の生活や共同の世界のうちにやどる」と述べています。
フレドリック・ジェイムソンも『ヘーゲル変奏』(2010年)で、ヘーゲルの「精神」には「集合性の含意がつねに込められてい」るとしています。
「精神」とは民族精神などのように、集合的・共同的なものを言うのです。
つまり引用文にある、自分が世界であり、世界が自分であると意識する、という内容は、
個々の人が個人でありながら、他の人々と共にある共同存在でもあるさまを表しています。
ここでヘーゲルは共同体論に踏み込んでいくわけです。



芸術疎外論【その3】

ストア主義という格差対策

前回はヘーゲルの疎外論に入る前段階として、疎外の問題が書かれている『精神現象学』が、普遍と個別の問題を取り扱った本であることを見ていきました。
今回は前回扱った主人と奴隷の論以後の展開から始めようと思います。
「自分だけで存在する」という個別的なあり方を追求した自己意識は、主人と奴隷へと分裂することとなり、
労働によって「現にあるもの」と関係する奴隷の方が、主人より自立的な存在として自らを直観する契機を持っています。
前回紹介したマクダウェルは、「統覚的自我と経験的自己」の中で、
ヘーゲルの主奴論が、共同体内部に存在する2人の別々の個人の関係を描いたものではなく、
ひとりの個人の中で分裂した意識を統合しようとするものだと主張しています。
どうもメジャーな解釈ではないようなのですが、実際にヘーゲル自身がそのような読み方を許容する書き方をしています。
主人と奴隷の章に続く「ストア主義→懐疑主義→不幸な意識」という展開では、
自己意識が不変の理念と個別的な現実に分裂することがテーマになっているからです。
この分裂はのちに疎外にも関係してくる部分ですので、少し丁寧に見ていきたいと思います。



芸術疎外論【その2】

ヘーゲルあってのマルクス

前回の記事では、マルクスの疎外論の評価がどのように移り変わっていったかを見ていきました。
そこで多少は疎外論の輪郭は示したのですが、疎外論そのものについての本格的な考察を後回しにしてしまいました。
これから芸術創作にとって疎外論が持つ意味を探求したいと思いますが、
マルクスの『経済学・哲学草稿』を読んでいく前に、どうしてもヘーゲルの疎外論を見ていかないわけにはいきません。
『経済学・哲学草稿』の第三草稿には「ヘーゲルの弁証法と哲学一般への批判」という章があるのですが、
マルクスの疎外論にはヘーゲル哲学の批判もしくは継承という面が強く出ています。
ものすごく簡単に整理すれば、
まずヘーゲルの疎外論があって、それを批判するフォイエルバッハの疎外論があり、それを受けてマルクスが自分の疎外論を発展させた、という流れがあります。
つまり、マルクスの疎外論には、ヘーゲルの影響とフォイエルバッハの影響とが見られるのです。


マルクスが自立した思想家になったのは、ヘーゲル左派(フォイエルバッハ)の影響から抜け出した後である、という立場が、
疎外論を未熟な時期の思想として軽視する見方を生み出したことには前回触れました。
僕もフォイエルバッハの影響に関しては、のちのマルクス思想に重要な役割を果たしたとはあまり思わないのですが、
ヘーゲルとなると話は別です。



芸術疎外論【その1】

疎外されたクリエイター

ケース①
出番を待つ間、お笑い芸人のMはまた学生時代を思い出していた。
サークルの合宿で先輩から「何か面白いことをやれ!」と急に声をかけられて、とっさに思いついたギャグをした時のことだ。
彼自身は自分が何をやっているのかもよくわからなかったが、
その場にいる人々の笑い声が、空間を震わせるうねりとなり、
正面に立つ彼の全身に次から次へと降り注ぐのを感じていた。
ウケるということは幸福な空間づくりなのだと知った。
快進撃はお笑いの世界に足を踏み入れても続いた。
Mのギャグはお茶の間にも知られるようになった。
そうしてMは、そのギャグをしている瞬間のために生まれてきたかのように感じるようになった。
彼のギャグは彼の魂だった。
しかし、そこまでだった。


何年かすると、Mは新しいギャグも求められなくなっていた。
多くの人が見飽きているはずのギャグをテレビ局から要求された。
そのうちMは散発の笑いの間にあるソーシャルディスタンスが計測できるようになった。
もうやめたい、と思った。
もうやめたい、と事務所にも相談した。
まだ喜ぶお客がいる、と言われた。
そして今日もステージに立っている。
「あれ、お願いします」と言われるたびに、彼のギャグは彼のものでなくなる気がする。
Mはもう自分のギャグの奴隷だった。
いっそ現実の自分は死んでしまって、インターネット上にいる映像の自分が、勝手にギャグを繰り返していればいいのだ、と思った。



『現代思想の基礎理論』(講談社学術文庫) 今村 仁司 著

80年代にねじ曲げられた現代思想

ポストモダンという価値観が日本では〈フランス現代思想〉との関連で語られてきました。しかし、ポストモダンがマルクス主義とどう関係してきたのかを理解している人は少ないように思います。
マルクス主義はスターリン批判(1956年)フランスの五月革命(1968年)を境に、大きな転換を迫られることになったのですが、
日本で現代思想の代名詞となった〈フランス現代思想〉がその影響下にあることは、僕の世代になるとあまり考慮されていなかったように思います。
フランスの知識人は伝統的に左派だというのが常識なのですが、
フレンチ・セオリーがアメリカでウケたこともあって、そのあたりの事情がぼやかされてしまっているように思います。


本場の〈フランス現代思想〉は左派的な性質を持っているのですが、
日本のとりわけニューアカ以降の現代思想ブームは、ソビエト社会主義体制の落ち目の時期と重なったため、
マルクスの影響を隠蔽するようなかたちで、アメリカ消費文化の牽引役を果たしてきました。
これが本来の〈フランス現代思想〉とは似ても似つかないものであるため、僕は〈俗流フランス現代思想〉と呼んでいます。
そのため日本では、フランス思想といってもマルクスの『資本論』の読み直しを行ったアルチュセールにこだわっている市田良彦のような存在はマイナーで、
学問的内実に乏しい学者なのか文筆家なのかよくわからない人が、
青土社や河出書房新社などの出版ジャーナリズムと癒着関係にあって幅をきかせてきました。
(こういう人に限って、マルクスはもちろんアルチュセールにもスピノザにも触れずにドゥルーズを語っていたりするのです)
その結果、日本の無知な出版ジャーナリズムしか知らない人が、「リゾーム」とか「差延」とかいうキーワードを振り回して現代思想を理解した気分になっています。
現代思想の政治的な面を意図的に脱色(去勢)してきたのが、日本のオタク向け現代思想というものなのです。


そのような〈フランス現代思想〉の日本的「ねじ曲げ」が行われる以前に、
マルクス経済学とアルチュセール思想に詳しい今村仁司が、マルクス主義の文脈をからめて現代思想を紹介していた本を見つけました。
『現代思想の基礎理論』(1992年)という本です。
残念ながら今は絶版になっています。
本書を読むと、僕がAmazonレビューに書いて散々文句を言われた内容が普通に書かれていました。
この本がもっと読まれていれば、僕が不当な攻撃を受けることもなかったように思います。


たとえば、僕が〈フランス現代思想〉が出版界の中心にある、と書いたことを取り上げて、
佐野波布一(僕の旧筆名)を当てにならないレビュアーだと中傷記事を書いた人がいましたが、
残念ながらその程度のことは本書にしっかり書かれています。
「現在の日本の文化ジャーナリズムを眺めてみますと、ヨーロッパのある地域で話題になっている一部の思想が乱舞しているようです」
今村が言う「ヨーロッパのある地域」とはもちろんフランスのことです。
今村は〈フランス現代思想〉を「流行」と捉えています。
〈フランス現代思想〉は現代思想の代表ではなく、日本の「流行」でしかないという視点が1987年の時点には存在していたのです。
今村は続く部分でこうも書いています。


日本で好んで話題にされている当世風の思想は、この広い地球上の一画で生れたもの、つまりフランスの思想です。構造主義、ポスト構造主義、ディコンストラクション、ポストモダン、等々はおおむねフランス産であり、そのうちのあるものはフランスからアメリカに輸出され、アメリカ化したフランス物が日本に輸入されて、文化産業によってニューモデルの文化商品として流行しているといってよいでしょう。

これを今村は「病的な現象」であり、「知識人たちは、フランス物ばかり流行する日本の文化状況に対してしきりに反撥しています」と述べています。
これを読めば、僕の言っていたことなど一昔前の知識人の普通の意見だったことが想像できるのですが、
ニューアカ以降の「文化商品」でしか思想を知らない僕周辺の世代は、
出版ジャーナリズムを正義と短絡する消費市場崇拝に染まっています。
本書を読むと、アカデミシャンが出版ジャーナリズムと距離を保っていた時代にノスタルジーを感じずにはいられません。



たかが俳人されど俳人

コンプレックスを埋めるためのドーピング

この文章は本当はTwitterでつぶやきたかったのですが、
あまりに長くなりすぎるので、不本意ながらブログを使うことにしました。
俳句に興味のない読者は読み飛ばすことをお勧めしますが、
文学や詩の現状を知る手がかりにはなるかもしれません。


最近、安里琉太という1994年生まれの若い俳人が、処女句集『式日』を出しました。
帯文には「到来し、触発する言葉」とか「書くことは、書けなさから始まっていると、今、強く思う。」とか、
安里当人の言葉かわからないのですが、フランス現代思想にでも憧れてしまったかのような浮ついた言葉が踊っています。
(これを見て福田若之『自生地』のデリダってる自意識を思い出してしまいました)
私が書くのではなく、言葉の方から到来したのだ、ということなのでしょうか。
こういう宣伝文句から「自称詩人」感があふれているのですが、いやいや、これは若い人の句集でしかありません。



『有閑階級の理論』(講談社学術文庫)ソースティン・ヴェブレン 著/高 哲男 訳【後編】

顕示的浪費の文化的影響

不勉強な哲学者たちの誤りを正すのに紙幅を費やしてしまいましたが、
学者でありメディア露出も多い著名人が出版し、業界ではそれなりの評価を受けた本でさえ、プロの仕事と言えないものがある、と認識することが大切です。
文章の内容は、本質的に、内容そのもの以外(社会的地位や名声など)が判断材料になることなどないのです。
とりわけ権威への依頼心が強い人を信用しすぎるのはお勧めしません。


ここまでが『有閑階級の理論』全14章のうちの4章までにあたります。
おいおい、まだまだ残りの方が断然多いじゃないか、と思われるかもしれませんが、ここからは派生的な内容です。
よく読むと興味深い記述がたくさんあるのですが、
記事の長さを考えて、僕が個人的に興味を惹かれたところをピックアップして書いていきたいと思います。