南井三鷹の文藝✖︎上等

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ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その5】

極の不動

荒木飛呂彦の人気漫画『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの第3部「スターダストクルセイダース」(1992年)で、
主人公の空条承太郎と宿敵のDIOとのラストバトルは、双方の「時間を止める能力」の使い方で勝負がつきます。
9秒間も時間が止められるDIOが、2秒止めるのが精一杯の承太郎に敗れた原因は、優越感による慢心以外にないわけですが、
時間を何秒間止められるか、という逆説的な現象は、「時間を止める」ということが認知上の錯覚でしかなく、
実際は自身が高速で動いているために、周囲の時間が止まって見える、ということに起因します。
時間が静止する感覚は、認知主体が度を超えた高速で動いているからこそ起こるのです。
つまり、速度を極限まで加速していくと、時間が静止する「瞬間」がだんだんと引き伸ばされていくことになります。
こうして「加速」による価値が、「瞬間」の価値へと置き換えられるのです。



ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その4】

映画という兵器

ヴィリリオの思想を初期から見直す記事の4回目です。
ヴィリリオはメディアの本質を、「速度」を生み出す「乗り物」として考えた人です。
乗り物は加速によって、それまでいた場所を置き去りにするので、
乗り手に地上的な生活から離脱した体験をもたらします。
生活の外部に離脱する体験とは、「彼岸」の擬似体験にほかなりません。
日常生活から離れて速度の中にある人間を、僕は〈速度−内−存在〉と名づけました。
速度を媒介メディアとして生活領域から離脱する技術は、やがてフィルムを一定速度で回転させてスクリーンに映し出す映像技術へと受け継がれるのです。



ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その3】

生きたままでの輪廻転生

前回はメディアが乗り物である、という話が中途半端なところで終わってしまいました。
速度の思想家であるヴィリリオは、『ネガティヴ・ホライズン』(1984年)で速度を生み出す乗り物について考察を試みています。
これまでのヴィリリオの主張をまとめておきましょう。

① 乗り物は乗り手を脆弱さから守る移動要塞である
② 乗り物は宗教的彼岸へと到達するための手段である
③ 速度とは暴力である
④ 乗り物に乗る、または乗り物に転生することは、支配的権力の地位にあることを表す

乗り物の初期形態は、馬やラクダなどの乗用動物です。
ヴィリリオは「乗り物」としての乗用動物が、主に戦争の手段だったことを重視しています。
乗用動物は乗り物であると同時に初期の軍事兵器でもありました。
当然のことですが、動物を乗用にするには調教が必要です。
「動物を乗用に調教することによって、運動エネルギーを、つまり馬のタンパク質ではなく、速度を保存する」と述べるヴィリリオは、
動物が狩られるものから家畜として育てられるものへと移行することで、「速度の保存」が行われるとしています。
「速度の保存」というのは面白い表現ですが、要するに電気自動車をフル充電するように、速度を生み出すエネルギーをいつでも使えるようにしておくということです。
こうして走行用の動物は、「最初の速度製造機」となり、それがやがては蒸気機関へと置き換えられていくのです。



ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その2】

ヨーロッパという「速度体制」

一般にポール・ヴィリリオは「移動」を前提とした「速度」の思想家と言われています。
それはヴィリリオが速度に注目し、ヨーロッパ社会全体を「速度体制」として描き出しているからです。
「速度体制」とは、どのような社会構造なのでしょうか。
この言葉はヴィリリオの造語であるドロモクラシー(dromocratie)の訳語です。
dromo-という接頭辞はギリシア語の「走行」を意味するので、「走行体制」と訳している翻訳者もいます。
前にも述べましたが、ヴィリリオは独自な言葉の使い方をするので、語義的な正確さにこだわる必要はあまりないと思います。
僕自身は「移動と加速を管理する権力による社会体制」と理解しています。
要するに、「速度体制」とは、社会全体が速度によって規定されていることを示す言葉なのです。
この表現が、総力戦体制から逆算して取り出されたイメージであることは疑いようもないことです。
つまり、ヴィリリオはかつてない大規模破壊を導いた総力戦体制のルーツを、権力が持つ速度への欲望とその社会システム化に見ているのです。
ヴィリリオは歴史事実の引用によってそれを示していくのですが、注意したいのは、
彼の目的が歴史事実を明らかにするのではなく、歴史を材料にして現代の総力戦体制がいかに「ある種の欲望ヽヽの帰結」であったかを描き出すことにあるということです。



ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その1】

誤解された思想家

ポール・ヴィリリオの名前を聞かなくなって久しいですが、2018年に亡くなったことで、ますます過去の人になろうとしています。
日本ではヴィリリオの翻訳書が多いわりに、ヴィリリオに関心を持つ人はあまり多くありません。
人気の〈フランス現代思想〉に属しているわりに、そもそも概説書がほとんどないですし、
翻訳者のほとんどがいわゆる有名大学の研究者ではありません。
おそらくヴィリリオが建築家であり、アカデミックな研究者でないことが影響しているのでしょう。
そんなマイナーな存在なのに、日本でヴィリリオの翻訳書が多いのは、
日本で大人気のドゥルーズ=ガタリの双方と交友関係を持っていたからだと思います。
ヴィリリオはドゥルーズ=ガタリの著書で言及されているだけでなく、ドゥルーズと個人的な付き合いもあった人です。
ガタリとは一緒に自由FM放送局「ラジオ・トマト」を立ち上げています。
しかし、僕自身はヴィリリオを読んでいた時に、ドゥルーズ=ガタリを意識することは全くありませんでした。
日本のドゥルーズ学者がヴィリリオに特別な関心を抱いたこともなかったと思います。