南井三鷹の文藝✖︎上等

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芸術疎外論【その4】後編

敵対性を前提とする一神教思想

ヘーゲルの共同体において、否定性を介した「反省」というプロセスが重要であることはすでに確認したとおりですが、
この否定性の導入のことをヘーゲルは「疎外(Entfremdung)」や「外化(Entäußerung)」という言葉で示しています。
法律用語のEntäußerungは財産などの「譲渡」を意味する語です。
ここから個人の意志を権力へと「委譲」する意味で用いられることもあるようです。


疎外の概念が登場するのは、古代ギリシア的な人倫共同体が没落して、ローマ帝国になぞらえられる「法支配」が成立するようになってからです。
そのプロセスに軽く触れておきます。
共同体は他の共同体を排除して独立を保ちます。
その戦いに備えて、共同体は自らの内部をワンチームにしようと「個体が個別化することを抑圧する」ことになります。
なぜなら、ポリス的な人倫共同体にも共同性と個別性の葛藤は存在するからです。
ヘーゲルがそれを男性原理と女性原理、年配者と若者の葛藤として描いたりするのも興味深いのですが、
祖国防衛戦争に突入すると、共同性の原理が強まって個別性を否定していく結果になります。
しかし、それが皮肉な結果を導きます。
祖国を守るのは若い個別の兵士たちです。
共同体の維持という仕事が、命を賭けた若い兵士の個別性をかえって輝かせることになってしまうのです。
こうして生き生きとした人倫的な共同性は没落し、個別的な個体が生き生きとする普遍的な共同体が成立します。
これを『精神現象学』では「法支配」の状態と呼んでいます。



芸術疎外論【その4】前編

「他者」を否定するオタクたち

前回はヘーゲル『精神現象学』の「自己意識」の章に出てくる「不幸な意識」を中心に見ていきました。
不幸な意識ではキリスト教の精神が描かれていたのですが、
そこでは理念と現実、彼岸と此岸に分裂した意識を統一することが課題でした。
分裂した両者は「媒語」によって、いったん推論的に結合されて、次のステージである「理性」へと至ります。
「理性」の章は割愛しますが、その後には「精神」へと段階的に発展していくことになります。
『精神現象学』で疎外が語られるのは、「精神」の段階になってからです。


理性が精神となるのは、「いっさいの実在性である」とする確信が真理ヴアールハイトまで高められたときである。つまりその場合の理性は、じぶん自身をみずからにとっての世界として、また世界をじぶん自身として意識することになる。(ヘーゲル『精神現象学【下】熊野純彦訳)

長谷川宏は『ヘーゲルを読む』(1995年)で、ヘーゲルの「精神」を人間が集まって作る共同性だとして、
「精神はそういう共同の生活や共同の世界のうちにやどる」と述べています。
フレドリック・ジェイムソンも『ヘーゲル変奏』(2010年)で、ヘーゲルの「精神」には「集合性の含意がつねに込められてい」るとしています。
「精神」とは民族精神などのように、集合的・共同的なものを言うのです。
つまり引用文にある、自分が世界であり、世界が自分であると意識する、という内容は、
個々の人が個人でありながら、他の人々と共にある共同存在でもあるさまを表しています。
ここでヘーゲルは共同体論に踏み込んでいくわけです。



芸術疎外論【その3】

ストア主義という格差対策

前回はヘーゲルの疎外論に入る前段階として、疎外の問題が書かれている『精神現象学』が、普遍と個別の問題を取り扱った本であることを見ていきました。
今回は前回扱った主人と奴隷の論以後の展開から始めようと思います。
「自分だけで存在する」という個別的なあり方を追求した自己意識は、主人と奴隷へと分裂することとなり、
労働によって「現にあるもの」と関係する奴隷の方が、主人より自立的な存在として自らを直観する契機を持っています。
前回紹介したマクダウェルは、「統覚的自我と経験的自己」の中で、
ヘーゲルの主奴論が、共同体内部に存在する2人の別々の個人の関係を描いたものではなく、
ひとりの個人の中で分裂した意識を統合しようとするものだと主張しています。
どうもメジャーな解釈ではないようなのですが、実際にヘーゲル自身がそのような読み方を許容する書き方をしています。
主人と奴隷の章に続く「ストア主義→懐疑主義→不幸な意識」という展開では、
自己意識が不変の理念と個別的な現実に分裂することがテーマになっているからです。
この分裂はのちに疎外にも関係してくる部分ですので、少し丁寧に見ていきたいと思います。



芸術疎外論【その2】

ヘーゲルあってのマルクス

前回の記事では、マルクスの疎外論の評価がどのように移り変わっていったかを見ていきました。
そこで多少は疎外論の輪郭は示したのですが、疎外論そのものについての本格的な考察を後回しにしてしまいました。
これから芸術創作にとって疎外論が持つ意味を探求したいと思いますが、
マルクスの『経済学・哲学草稿』を読んでいく前に、どうしてもヘーゲルの疎外論を見ていかないわけにはいきません。
『経済学・哲学草稿』の第三草稿には「ヘーゲルの弁証法と哲学一般への批判」という章があるのですが、
マルクスの疎外論にはヘーゲル哲学の批判もしくは継承という面が強く出ています。
ものすごく簡単に整理すれば、
まずヘーゲルの疎外論があって、それを批判するフォイエルバッハの疎外論があり、それを受けてマルクスが自分の疎外論を発展させた、という流れがあります。
つまり、マルクスの疎外論には、ヘーゲルの影響とフォイエルバッハの影響とが見られるのです。


マルクスが自立した思想家になったのは、ヘーゲル左派(フォイエルバッハ)の影響から抜け出した後である、という立場が、
疎外論を未熟な時期の思想として軽視する見方を生み出したことには前回触れました。
僕もフォイエルバッハの影響に関しては、のちのマルクス思想に重要な役割を果たしたとはあまり思わないのですが、
ヘーゲルとなると話は別です。



芸術疎外論【その1】

疎外されたクリエイター

ケース①
出番を待つ間、お笑い芸人のMはまた学生時代を思い出していた。
サークルの合宿で先輩から「何か面白いことをやれ!」と急に声をかけられて、とっさに思いついたギャグをした時のことだ。
彼自身は自分が何をやっているのかもよくわからなかったが、
その場にいる人々の笑い声が、空間を震わせるうねりとなり、
正面に立つ彼の全身に次から次へと降り注ぐのを感じていた。
ウケるということは幸福な空間づくりなのだと知った。
快進撃はお笑いの世界に足を踏み入れても続いた。
Mのギャグはお茶の間にも知られるようになった。
そうしてMは、そのギャグをしている瞬間のために生まれてきたかのように感じるようになった。
彼のギャグは彼の魂だった。
しかし、そこまでだった。


何年かすると、Mは新しいギャグも求められなくなっていた。
多くの人が見飽きているはずのギャグをテレビ局から要求された。
そのうちMは散発の笑いの間にあるソーシャルディスタンスが計測できるようになった。
もうやめたい、と思った。
もうやめたい、と事務所にも相談した。
まだ喜ぶお客がいる、と言われた。
そして今日もステージに立っている。
「あれ、お願いします」と言われるたびに、彼のギャグは彼のものでなくなる気がする。
Mはもう自分のギャグの奴隷だった。
いっそ現実の自分は死んでしまって、インターネット上にいる映像の自分が、勝手にギャグを繰り返していればいいのだ、と思った。