- 2021/02/18
- Category : 【逸脱書評】俳句・詩
ポストモダンの肖像──鴇田智哉『エレメンツ』(素粒社)を読む【後編】
メタ視点を居場所にする文学はいらない
消費資本主義における超越性は、アイロニーによってメタ的な視点に立つことで擬似的に達成されます。
このメカニズムを詳しく説明するのは、別の記事に譲りますが、
『資本論』の価値形態論を参照すれば、貨幣というものが全ての商品に対してメタな位置にあることがわかるはずです。
なぜなら、貨幣とはオブジェクトレベルにある商品群から、特定の商品(=金)だけを疎外して、すべてを媒介するメタな位置に置くことで成立したものだからです。
このメカニズムが貨幣を持つ者を、メタ的な位置へと押し上げます。
それは、マーケットに存在するあらゆる商品を、自分の「好き嫌い」で自由に選び取ることができる大富豪のポジションです。
商品すべてを俯瞰しうるメタ視点は、もともと大富豪にだけ許されたものだったわけですが、
メディア技術の進歩によって、たいして金持ちでもない人にも擬似的にそのような気分が得られるようになりました。
なにしろ自分の持ち金と関わりなく、インターネット上であらゆる商品を見渡して好きな商品を探すことができるのですから。
アメリカの貧乏人がどうしてトランプと一体化していられるのか不思議に思った人がいるかもしれませんが、
インターネットというメタ的な視点によって、いつのまにか気分だけ大富豪に近づいているのです。
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