南井三鷹の文藝✖︎上等

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「従属」を価値とするパロディ国家【前編】

対米従属と強者依存

日本では経済繁栄を極めた80年代以降に、「文化のサブカル化」と「知性のオタク化」が進みました。
これまで僕は、このポストモダン現象を、主に消費経済との関係で考えてきましたが、
今回は政治的問題、とりわけ「対米従属体制」の絶対化という視点からアプローチしたいと思っています。
「対米従属体制」とは、国土防衛を日米安保(日米同盟)に依存するだけにとどまらず、日本の種々の政策決定をアメリカの都合に合わせて行う社会体制のことです。
簡単に言えば、今の日本はアメリカから言われたことに、できるかぎり従う「子分」でいることに自足﹅﹅した﹅﹅ということです。
実際、日本にはアメリカに従う以外の選択肢が、少数派の間でさえ社会的に共有されているとは言えません。
「対米従属体制」は80年代以降の「国是」であり、日本人は他の可能性を考えることをやめてしまいました。
それ以後の日本は、世界で経済競争に勝利するのではなく、世界経済の支配国(アメリカ)にただ認めて﹅﹅﹅もらう﹅﹅﹅ことを国際的﹅﹅﹅目標にしていったのです。



アニメ【推しの子】にハマってみた

「推し=母親」の二重性

今回は2023年4月〜6月期に放映されたアニメ『【推しの子】』(第一期)を取り上げて、「今」という時代を考えたいと思います。
この作品がヒットしたことは感覚でわかります。
僕は毎週楽しみました。
アニメ最終話以降の展開が気になるので、赤坂アカ・横槍メンゴの原作漫画を読みたい気持ちもあるのですが、
僕は純粋にアニメ作品として味わうことに決めました。
(無料で楽しめるから、という面も大きいですが)
なので、この記事のネタバレ情報は、ほぼアニメ化したところまでの内容です。



老いてなお「ニューウェーブ」の日常

ポップ文学が新しかった時代

1970年代に政治の季節が衰退し、80年代になるとバブル経済を背景として、消費文化が日本社会を牽引するようになりました。
音楽ジャンルでは、湿った「負の心情」に寄り添う歌謡曲や演歌より、
CMやドラマを彩る「軽快な」ポップ・ミュージックが主流になりました。
それと歩調を合わせるように、文学市場でも消費に適した「大衆的ポップ」な文学が求められていきます。
それまでの文学は、現実の重苦しい問題を意識させる堅苦しいものであったため、
「ポップ文学」は新しいスタイルだと信じられて、40年を経過した現在にまで至っています。
その結果、「ポップ文学」は、自覚なく同じ話を反復﹅﹅する﹅﹅、痴呆の初期症状のようなマンネリに陥っているのですが、
消費以上の文化的価値を持たない社会では、若さを失った老人たちがいつまでも「ポップ」に執着し続ける痛々しさを目にするほかありません。



イワン・カラマーゾフ「大審問官」の射程【後編】──あるいは『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について

享楽の管理

前回に引き続き『カラマーゾフの兄弟』に収められた劇詩「大審問官」を読んでいきます。
「大審問官」は、カラマーゾフ三兄弟の次男、イワンの悪魔的思考によって生み出された問題作です。
その舞台は16世紀のスペイン。
そこに不意にキリストが現れ、死者を生き返らせます。
大審問官はすぐさまキリストを捕らえさせ、牢の中で沈黙する相手に語りかけます。
キリストの教えは人間の「自由」を価値とするが、人間に「自由」は重荷でしかなく、むしろキリストが「奇蹟」によって人間を服従させるべきだった、
人間は個々の「自由」よりも、みんなで同じ対象に服従する方を望んでいる、
キリストがそれを実現しないので、大審問官が神の代理人として、「地上のパン」を与えて民衆を服従させ、彼らの望みを叶えている、
こうキリストを問い詰めながら、大審問官は自らの民衆支配を正当化するのです。



イワン・カラマーゾフ「大審問官」の射程【前編】

ドストエフスキーとサブカル的要素

ドストエフスキーには『罪と罰』(1866年)や『白痴』(1868年)『悪霊』(1871年)など代表作と呼べる長編がいくつもありますが、
その中でも『カラマーゾフの兄弟』(1880年)は最も宗教色が強く出ている小説です。
物語の軸は、カラマーゾフ家の「父殺し」──父フョードル・カラマーゾフ殺人事件と、その容疑者である長男ドミートリイ・カラマーゾフの裁判ですが、
そこに信仰と無神論という、宗教的なテーマが絡められた複雑な構造をしています。
フョードルの息子にはドミートリイ以外に、修道院に身を置く純真な三男のアリョーシャと、悪魔的知性の持ち主である次男のイワン、不敵な使用人の私生児スメルジャコフがいます。
(この記事では、人物名の日本語表記は新潮文庫の原卓也訳を用います)



「わかりやすさ」の落とし穴

同質性を基盤とする「疑似家族」

いわゆるポストモダン思想は、資本主義体制(西側)と社会主義体制(東側)という二項対立を乗り越えることを存在意義としていました。
しかし、ポストモダン思想が支持を集めた後でも、
イデオロギーの対立「図式」が、解体されることはありませんでした。
90年代の社会主義体制の崩壊によって、
東西のイデオロギー対立は、「現状肯定=保守的右派」と「現状批判=改革的左派」の対立に引き継がれました。
その内実は複雑化しているものの、わかりやすい二項対立図式はいつまでも維持されています。
その理由はシンプルです。
たいてい考えることが嫌いな人は、自分と異なる意見に真摯に応じるより、異なる主張をする人を「敵陣営」と見なして排除することを好むからです。
とりわけ日本では、肩書き主義によって、主張の内容を吟味するよりも、主張する人が「何者か」を判断基準にすることに、あまり疑問がありません。



『「社会正義」はいつも正しい』(早川書房)ヘレン・プラックローズ ジェームズ・リンゼイ 著/山形 浩生 森本 正史 訳

差別批判の裏側──〈社会正義〉の横暴

自由を信条とする「リベラリズム」が、近年になって危機に瀕しています。
リベラリズムの意味は多様でわかりにくいのですが、
異質な価値観の共存と個々人の自由を、理性的な議論によって認め合う態度、と理解しておけばいいでしょう。
liberalという語に「寛大な、度量が大きい」の意味があるように、
自由だけを尊重するのではなく、自由と平等の両立を模索していくのが、本来のリベラリズムです。
リベラリズムは左派的と見なされるので、右派の保守勢力がこの考え方を敵視するのはわかるのですが、
最近になって目立っているのは、リベラルに分類される〈社会正義〉(Social Justice)の活動が、人々の自由を害している状況です。
とりわけ、「表現の自由」が危機にさらされています。
左派の尊重する自由が、〈社会正義〉という左派勢力に脅かされる「ねじれ現象」は、どうして生まれてしまったのでしょうか。



「資本主義批判」で儲けるために

出版業界も「番宣」花ざかり

斎藤幸平の新刊『ゼロからの『資本論』』が、店頭に積み上げられているのを見て、
またこういう商売か、と思ってしまいました。
「こういう商売」というのは、テレビで言う「番宣」にあたる自己宣伝のコンテンツ化のことです。
出版に当てはめるならば、自分の利益に関与する書物を宣伝するための書物ということになります。



なぜ日本では高度情報技術と消費社会の批判は歓迎されないのか

マス消費者を操るテクノロジーとイデオロギー

先頃、ドイツ現代思想の思想家ビョンチョル・ハンの『情報支配社会』(2021年)の邦訳を読みました。
現代社会の「肯定性の過剰」を取り上げた『疲労社会』(2010年)と『透明社会』(2012年)に続いて、
この本では「デジタル情報体制(Infokratie)」の支配を切れ味鋭く批判しているのですが、
ハンの優れた考察が日本の読者に響くかと言えば、極めて怪しいと悲観せずにはいられませんでした。


ズバリ言ってしまいますが、日本ではメディア技術の批判は歓迎されないのです。
書店を見回してみれば、高度情報技術を批判する本は、海外の翻訳ものがほとんどです。
たとえばアンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』(2019年)は、日本でベストセラーになりましたが、
このようなスマホ批判の本は、不思議と著者が外国人なのです。
どうやら日本の出版人やマスコミは、高度情報技術や消費社会の批判を、自分ではやりたくないようなのです。



『力と交換様式』(岩波書店)柄谷 行人 著

生産から交換へ

去る12月8日に柄谷行人がアメリカのバーグルエン賞に選ばれました。
僕は柄谷から多くを学んできたので、彼の実績が国際的に認められたことを非常に喜ばしく思っています。
その柄谷が集大成的に追求しているのが「交換様式」論です。
それを改めてまとめた『力と交換様式』(2022年)を今回は取り上げます。


「交換様式」とは何なのか、と思う人もいるかもしれませんが、広く社会的に行われている交換を、タイプ別に把握したものです。
それまでのマルクス主義理論では、経済的土台となる生産様式が社会を構成するという発想でしたが、
柄谷は生産様式が土台であることを認めつつ、問題意識を生産様式から交換様式へと移すことを提案しています。
「生産様式から交換様式への移行」が近年の柄谷のテーマなのです。