南井三鷹の文藝✖︎上等

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「資本教」についての覚書

価値とは交換であり、力とは数である

社会主義体制が崩壊した1990年代以降、資本主義が世界を支配しています。
それが唯一絶対の地位を得たことで、人々は消費資本主義がイデオロギーであると意識しなくなりました。
社会の評価基準を手中に収めた資本主義は、
現代の犯すべからざる神とまで言える段階に達しています。
もはや資本主義をイデオロギーだと主張するだけで、神が作った世界の安定を乱す「迷惑な人」と見なされてしまうのではないでしょうか。



「従属」を価値とするパロディ国家【後編】

対米従属から離脱する自主防衛

今の日本はアメリカに従う「対米従属体制」であり、他国に主権を譲り渡したパロディ国家です。
たしかに主要7か国の一員に名を連ねてはいますが、もはや日本に主要先進国の内実はありません。
では、欧米列強のパロディ──「贋物」の国家──を不本意とした場合、それを改める方法はあるのでしょうか。
当たり前の結論ですが、アメリカに従属することをやめるしかありません。
「対米従属体制」は、アメリカに国土防衛を任せていることで成立しています。
そのため、アメリカに頼らず、独力で防衛する力を持つことが、対米従属から抜け出る条件になります。
その現実化には、周辺国と平和的関係を築く努力が欠かせません。
つまり、対米従属から離脱する条件は、こうなります。

 ① 自主防衛力の強化
 ② 周辺国との平和的関係

この両輪のどちらが欠けてもいけないのです。



「従属」を価値とするパロディ国家【前編】

対米従属と強者依存

日本では経済繁栄を極めた80年代以降に、「文化のサブカル化」と「知性のオタク化」が進みました。
これまで僕は、このポストモダン現象を、主に消費経済との関係で考えてきましたが、
今回は政治的問題、とりわけ「対米従属体制」の絶対化という視点からアプローチしたいと思っています。
「対米従属体制」とは、国土防衛を日米安保(日米同盟)に依存するだけにとどまらず、日本の種々の政策決定をアメリカの都合に合わせて行う社会体制のことです。
簡単に言えば、今の日本はアメリカから言われたことに、できるかぎり従う「子分」でいることに自足﹅﹅した﹅﹅ということです。
実際、日本にはアメリカに従う以外の選択肢が、少数派の間でさえ社会的に共有されているとは言えません。
「対米従属体制」は80年代以降の「国是」であり、日本人は他の可能性を考えることをやめてしまいました。
それ以後の日本は、世界で経済競争に勝利するのではなく、世界経済の支配国(アメリカ)にただ認めて﹅﹅﹅もらう﹅﹅﹅ことを国際的﹅﹅﹅目標にしていったのです。



老いてなお「ニューウェーブ」の日常

ポップ文学が新しかった時代

1970年代に政治の季節が衰退し、80年代になるとバブル経済を背景として、消費文化が日本社会を牽引するようになりました。
音楽ジャンルでは、湿った「負の心情」に寄り添う歌謡曲や演歌より、
CMやドラマを彩る「軽快な」ポップ・ミュージックが主流になりました。
それと歩調を合わせるように、文学市場でも消費に適した「大衆的ポップ」な文学が求められていきます。
それまでの文学は、現実の重苦しい問題を意識させる堅苦しいものであったため、
「ポップ文学」は新しいスタイルだと信じられて、40年を経過した現在にまで至っています。
その結果、「ポップ文学」は、自覚なく同じ話を反復﹅﹅する﹅﹅、痴呆の初期症状のようなマンネリに陥っているのですが、
消費以上の文化的価値を持たない社会では、若さを失った老人たちがいつまでも「ポップ」に執着し続ける痛々しさを目にするほかありません。



イワン・カラマーゾフ「大審問官」の射程【後編】──あるいは『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』について

享楽の管理

前回に引き続き『カラマーゾフの兄弟』に収められた劇詩「大審問官」を読んでいきます。
「大審問官」は、カラマーゾフ三兄弟の次男、イワンの悪魔的思考によって生み出された問題作です。
その舞台は16世紀のスペイン。
そこに不意にキリストが現れ、死者を生き返らせます。
大審問官はすぐさまキリストを捕らえさせ、牢の中で沈黙する相手に語りかけます。
キリストの教えは人間の「自由」を価値とするが、人間に「自由」は重荷でしかなく、むしろキリストが「奇蹟」によって人間を服従させるべきだった、
人間は個々の「自由」よりも、みんなで同じ対象に服従する方を望んでいる、
キリストがそれを実現しないので、大審問官が神の代理人として、「地上のパン」を与えて民衆を服従させ、彼らの望みを叶えている、
こうキリストを問い詰めながら、大審問官は自らの民衆支配を正当化するのです。



イワン・カラマーゾフ「大審問官」の射程【前編】

ドストエフスキーとサブカル的要素

ドストエフスキーには『罪と罰』(1866年)や『白痴』(1868年)『悪霊』(1871年)など代表作と呼べる長編がいくつもありますが、
その中でも『カラマーゾフの兄弟』(1880年)は最も宗教色が強く出ている小説です。
物語の軸は、カラマーゾフ家の「父殺し」──父フョードル・カラマーゾフ殺人事件と、その容疑者である長男ドミートリイ・カラマーゾフの裁判ですが、
そこに信仰と無神論という、宗教的なテーマが絡められた複雑な構造をしています。
フョードルの息子にはドミートリイ以外に、修道院に身を置く純真な三男のアリョーシャと、悪魔的知性の持ち主である次男のイワン、不敵な使用人の私生児スメルジャコフがいます。
(この記事では、人物名の日本語表記は新潮文庫の原卓也訳を用います)



なぜ日本では高度情報技術と消費社会の批判は歓迎されないのか

マス消費者を操るテクノロジーとイデオロギー

先頃、ドイツ現代思想の思想家ビョンチョル・ハンの『情報支配社会』(2021年)の邦訳を読みました。
現代社会の「肯定性の過剰」を取り上げた『疲労社会』(2010年)と『透明社会』(2012年)に続いて、
この本では「デジタル情報体制(Infokratie)」の支配を切れ味鋭く批判しているのですが、
ハンの優れた考察が日本の読者に響くかと言えば、極めて怪しいと悲観せずにはいられませんでした。


ズバリ言ってしまいますが、日本ではメディア技術の批判は歓迎されないのです。
書店を見回してみれば、高度情報技術を批判する本は、海外の翻訳ものがほとんどです。
たとえばアンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』(2019年)は、日本でベストセラーになりましたが、
このようなスマホ批判の本は、不思議と著者が外国人なのです。
どうやら日本の出版人やマスコミは、高度情報技術や消費社会の批判を、自分ではやりたくないようなのです。



図書館モデルと書店モデル

画面通りの彼女

画面で見ていた彼女が、カフェで向かい合って座っている。
画面通りの眼差し、画面通りのたたずまい、画面通りの仕草、画面通りの声……
再生を待つサムネイルのように恋人が微笑んでいる。
セールで掘り出した大きめのニット、300円ショップのイヤリング、ネット通販で探したブーツ……
動画で話題にしていたものばかりで、知らないのは一目でブランド品とわかるバッグくらいだ。
ヘアアイロンで軽く巻いた髪が、甘やかに落ち着き払っているのは、
最初に彼女を画面上で見た時と同じだ。
「髪型を変えようと思わないの?」と訊いたときは、「配信をしていると、イメージを変えにくくって」という応答をもらった。



なぜ日本でポストモダンは「保守」になったのか【後編】

「去勢」された自慰的動物

これまで丁寧に見てきたように、「ポストモダン思想」は、消費行為に依存するオタクを、「思想色」で美化する役割を果たしました。
もはや現代思想は、実態を美しく加工するための「外見修正アプリ」の一種でしかなくなったのです。
そこには思想的な「意味」の正確さも内実も存在していません。
ただ後ろ暗いものを隠蔽するための「粉飾ファッション」があるだけです。



なぜ日本でポストモダンは「保守」になったのか【中編】

『動物化するポストモダン』を読み直す

2000年を過ぎて、現代思想は「ポストモダン」となり、左翼的な批判思想から同質性に依拠する保守的なオタクの消費物へと変化しました。
支配的なシステムを擾乱する思想が、サブカル領域へと移行して、システムを保守する思想になってしまいました。
このような保守化の流れを確認するために、いま一度東浩紀の『動物化するポストモダン』を丁寧に読み直してみようと思います。