南井三鷹の文藝✖︎上等

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『ハーバーマス』(ちくま学芸文庫)中岡 成文 著

対話を重視するドイツ戦後思想の旗手

ハーバーマス思想の概説書で手近に入手できるものは多くありません。
実践的な社会理論であり、政治的でもあるため、日本では非政治的で非主体的な〈フランス現代思想〉より圧倒的に人気がありません。
モラトリアム的な〈フランス現代思想〉が若者やサブカルと相性が良く、オタク相手に「商業的に」成功したのに対し、
ハーバーマスやフランクフルト学派などの社会関係性を重視する思想は、「岩波的」左派知識人のものとして敬遠されたのでしょう。
僕が以前に読んだハーバーマスの概説書は、講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズでした。
買うときに気づかなかったのですが、増補版ではあるものの実は本書はその本を文庫版にしたものでした。
やっちまった。



『カントの「悪」論』(講談社学術文庫)中島 義道 著【その2】

定言命法と仮言命法

中島義道のカント読解の続きです。
前回はカント倫理学が「誠実性の原理」という理性のはたらきによって成立しているという中島の主張を確認しました。
しかし、自己愛に基づく「幸福の原理」の声の大きさの前に、理性の声はかき消されがちだとカントは言います。
カントは自己愛と理性を比べたときに、易きに流れる人間が自己愛という「悪」へと傾くことをよく自覚していました。
理性信仰に基づく倫理学をカント自身が「危うい立場」と語り、脆いものとして捉えているのはそのためなのですが、
中島は「カント倫理学の真価は、まさに倫理学の危うさ、道徳的善さの危うさ、人間存在の危うさをしっかり見据えているところにある」と言います。



『カントの「悪」論』(講談社学術文庫)中島 義道 著【その1】

カント倫理学の真髄は自己愛の排除にある

本書の原本は2011年に勁草書房から出版された『悪への自由』です。
カントが道徳的な善を「形式」に求めたために、倫理が「形式」にあるかのように解釈する俗説(ラカンの読みがこれにあたる)があるのですが、
これに対して中島はカント倫理学には「形式」の名のもとに「誠実性の原理」という実質が潜んでいることを明らかにしています。
専門的な哲学研究にとどまらない活躍をしている中島の書いたものだけあって、解説は平易な文で読みやすく書かれています。
(それでも第三章の議論は難しく、僕には追いかけるので精一杯でしたが)


中島は「形式」だけで倫理学が成り立つはずがない、と言います。
表面的には「形式」を強調する姿勢をとっていても、それを支えるのはカントの信念というべきもので、これを中島は「誠実性」という言葉で説明します。
カント倫理学を裏で支えているのは「誠実性の原理」なのです。
カントは「誠実性の原理」が生命や安全や快適などを求める「幸福の原理」よりも重要だと考えました。
この誠実性を支えているものが快や幸福ではなく、理性であるということが非常に重要です。



『古代インド哲学史概説』 (佼成出版社) 金岡 秀友 著 【その3】

六師外道と仏教の登場

紀元前6世紀になると、アーリヤ人が東へと移住するようになり、混血化が進んでアーリヤという実態は薄まっていきました。
それとともに、ブラフーマナ中心の貴族政治からクシャトリヤによる国王統治へと政治体制も変化しました。
小工業も発達し、のちにこれらの層が仏教を支持するようになるわけですが、
仏教に先行してまずは「六師外道」と呼ばれる多様な思想家が活躍をしました。



『古代インド哲学史概説』 (佼成出版社) 金岡 秀友 著 【その2】

「一」と「多」との合一すなわち「梵我一如」が意味するもの

アーリヤ人による最古の文献である『リグ・ヴェーダ』が成立してから、ほかにも多くのヴェーダ文献が編纂されるようになります。
本書では成立期によってそれらを「第一次ヴェーダ」「第二次ヴェーダ」「第三次ヴェーダ」と分けています。


第二次ヴェーダに分類されるものの中で代表的なものは、祭祀で唱えるマントラの解説や解釈などを集成した「ブラフーマナ」文献です。
ブラフーマナ(梵書)は言ってみれば儀式書です。
ヴェーダ祭式のやり方と祭詞・呪句についての解説などで構成されている「祭祀の書」です。
ブラフーマナには、神より人間の方を上位とする考えがあると金岡は指摘します。
というのは、文献の規定通りに間違いなく祭祀を実行すれば、神は人間の要求を拒むことができないと考えられていたからです。
これが祭祀の厳密な規定に対する知識と実行の権限を持つ者(バラモン)が、神々を動かし、宇宙を支配する権力者と見なされることにつながったのです。
神を祭祀の道具と見るインド的な神の捉え方(神観)は、ユダヤ・キリストの神とは異質と金岡は述べます。


ブラフーマナにおける神観の特色は、ヴェーダ、ことに『リグ・ヴェーダ』において一般的であった自然崇拝的なそれから、その背後の力、根源的な力、宇宙神的なものを求めるようになったことにある。

金岡はこのように書いて、第二次ヴェーダにプラジャーパティという世界の創造主が登場する理由を説明します。
神々が抽象化していくことによって、「無」や「ブラフマン(最高真実)」などの世界の根本原因が求められるようになっていったわけです。



『古代インド哲学史概説』 (佼成出版社) 金岡 秀友 著 【その1】

多と一を結びつけることが哲学の課題

本書は1979年に刊行された『インド哲学史概説』の新装改題版です。
岩波新書の赤松明彦『インド哲学10講』を読み始めたところ、恥ずかしながら内容についていけなかったため、まずは概論的な知識が必要だと痛感して、本書を先に読むことにしました。
金岡は古代インド文化の成立から順を追って丁寧にわかりやすく説明しているので、僕のような初学者でも困らずに読み進められました。


インドは現代でも多言語国家です。
地方が変わるとインド人同士でも言葉が通じないことがよくあるようです。
つまりは異質な「多」が集合してインドという「一」を構成しているわけですが、
外来のアーリヤ人が原住民を征服して成立したと見られる古代の時点から、このような異質性の混淆というのはインド的な現象で、
それが古代インド思想にも影を落としているように感じました。