南井三鷹の文藝✖︎上等

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ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その5】

極の不動

荒木飛呂彦の人気漫画『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの第3部「スターダストクルセイダース」(1992年)で、
主人公の空条承太郎と宿敵のDIOとのラストバトルは、双方の「時間を止める能力」の使い方で勝負がつきます。
9秒間も時間が止められるDIOが、2秒止めるのが精一杯の承太郎に敗れた原因は、優越感による慢心以外にないわけですが、
時間を何秒間止められるか、という逆説的な現象は、「時間を止める」ということが認知上の錯覚でしかなく、
実際は自身が高速で動いているために、周囲の時間が止まって見える、ということに起因します。
時間が静止する感覚は、認知主体が度を超えた高速で動いているからこそ起こるのです。
つまり、速度を極限まで加速していくと、時間が静止する「瞬間」がだんだんと引き伸ばされていくことになります。
こうして「加速」による価値が、「瞬間」の価値へと置き換えられるのです。



『収容所から来た遺書』(文春文庫)辺見 じゅん 著

帰国へダモイ」という希望

「大東亜戦争」と言われる日本と連合国との戦争は、1945年に「終戦」を迎えました。
しかし、国家が降伏を宣言した時に、戦争から兵士たちが解放されるわけではありません。
戦争終結後も戦争状態を生きなければならなかった人たちがいました。
その代表が、捕虜になった人たちです。
とりわけ過酷であったことが知られるのが、ソビエト連邦に投降し、強制収容所(ラーゲリ)で長きにわたり抑留された兵士や民間人です。
いわゆる「シベリア抑留」ですが、実は僕の祖父も日本軍兵士として出征し、シベリアで抑留されていました。
祖父は戦争の話をしたがりませんでしたが、とりわけ収容所の生活については祖母にも話さなかったようです。
終戦間近の1945年8月に、ソ連軍は中立条約を破棄して満州や樺太などの日本領内に侵攻しました。
もう日本軍に抵抗する力はなく、投降する兵士も多数出ました。
ソ連に抑留された日本人は、厚生労働省のレポートでは57万とされていますが、70万を超えるという説もあります。
ただでさえ猛烈な寒さに襲われるシベリアで、満足な食事も得られずに厳しい労働に従事させられたため、
本国に帰ることなく亡くなった人は最低でも5万5千人に上ります。



『透明社会』(花伝社)ビョンチョル・ハン 著/守 博紀 訳【後編】

居心地を追求した静止=生死なきオタク社会

サブカル文学の批判に共感する人は少ないでしょうから、話を『透明社会』に戻しますが、
ハンはプンクトゥムを「静止の場所」として捉えています。
ハンがポルノとして示すイメージとは、広告のことだと考えるとわかりやすいと思います。
テレビでもネットでも広告というものは流れ去るものでしかありません。
わざわざ静止して熟考するものではありませんし、熟考させる間もなく消費の欲望を喚起し、購入へとつなげるのが目的です。


こんにち生じている視覚的なもののポルノグラフィ化は脱文化化として進行する。ポルノグラフィックで脱文化化されたイメージは、読解すべきものをなにも与えない。それは広告イメージのように、媒介されることなく接触して伝染するように作用する。
(ビョンチョル・ハン『透明社会』守博紀訳)

ただメディア上で展示されるだけのイメージは、読解されることを求めません。
意味などという遅いものに媒介されることなく、ただ素早く接触し伝染することが至上命題です。
そこに「静止の場所」であるプンクトゥムが入り込む余地はありません。
(ハンは広告イメージにはストゥディウムも存在しないと書いています)



『透明社会』(花伝社)ビョンチョル・ハン 著/守 博紀 訳【前編】

透明性を要求する社会

前回に続きドイツ現代思想のビョンチョル・ハンを読んでいきます。
ハンの『疲労社会』(2010年)のテーマは、「同質なものが多すぎる」こと、つまり「肯定性の過剰」でした。
『透明社会』(2012年)でも同じく「肯定性の過剰」を問題にしているので、『疲労社会』の続編と考えて良いでしょう。


21世紀の社会では、グローバル産業社会の要請によって異質性や他者性が減退しています。
市場取引の拡大には商売における同一基準が必要になるので、異質性が差異へと切り下げられた同質的な社会が求められます。
社会が同質性を前提とするようになると、否定的要素を消し去るメカニズムが発達して、肯定性ばかりがあふれるようになりました。
それが「肯定性の過剰」です。
肯定性があふれると同質なものが多すぎる状態となり、他との差異を明らかにするために自分の能力を自発的に示すことが必要になります。
誰もが「できる」という肯定性を示すプレッシャーに苦しめられるのです。
つまり、現代社会において問題とすべきなのは、もはや否定性や他者性ではなく、肯定性による精神的な暴力プレッシャーだということです。



『疲労社会』(花伝社)ビョンチョル・ハン 著/横山 陸 訳

ポストモダンとは同質性の過剰

昨年、ビョンチョル・ハンの著作の翻訳が、花伝社から2冊同時に出版されました。
『疲労社会』(2010年)と『透明社会』(2012年)の2冊は、どちらも今から10年も前の本ですが、
短くて読みやすいので、ドイツの現代思想の一端を知るのにいい本です。
ビョンチョル・ハンは韓国からドイツに渡り、現象学研究で教授資格を獲得した人で、哲学やメディア論が専門です。
ベルリン芸術大学の教授だったので、ヨーロッパのアート界で高い評価を受けているのですが、
彼の著書は多彩で、現代社会論以外にもハイデガー論や東洋思想の本も書いています。
『禅仏教の哲学』(2002年)では、禅の理解のために俳句を取り上げているようです。



ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その4】

映画という兵器

ヴィリリオの思想を初期から見直す記事の4回目です。
ヴィリリオはメディアの本質を、「速度」を生み出す「乗り物」として考えた人です。
乗り物は加速によって、それまでいた場所を置き去りにするので、
乗り手に地上的な生活から離脱した体験をもたらします。
生活の外部に離脱する体験とは、「彼岸」の擬似体験にほかなりません。
日常生活から離れて速度の中にある人間を、僕は〈速度−内−存在〉と名づけました。
速度を媒介メディアとして生活領域から離脱する技術は、やがてフィルムを一定速度で回転させてスクリーンに映し出す映像技術へと受け継がれるのです。



現代思想の正体

タイムリープ化する「現代思想」

「ポストモダン思想」でも「現代思想」でも呼び方は何でもいいのですが、
特定のフランス現代思想を「最新」の哲学だと見なす神話ヽヽが、日本ではいつまでも信じられています。
簡単にまとめれば、ドゥルーズ=ガタリやデリダを中心とするフランス現代思想は、「68年の思想」と呼ばれるもので、
依拠する時代背景はもう50年前になるわけですから、ちっとも「現代」ではないわけです。
日本でフランス現代思想がブーム化したのは、浅田彰や中沢新一が「ニューアカ」と呼ばれて「知の商品化」が起こった80年代になります。
「商品化」と言われるのは、それが一般読者向けの出版ジャーナリズムと結びついた「商売」(さらに言えば「広告」)だったからです。
メディア・ジャーナリズムが「最新」の消費事情について取り上げるのを目にすることは日常茶飯事ですが、
それと全く同じ感覚で「最新」として売り出された思想の消費事情を、「現代思想」と呼んで知的な態度のように偽装してきました。
簡単に言えば、「現代思想」や「ポストモダン思想」とは、学術的な評価が定まっていない流行の西洋思想を、「人気商品」として売り出したものです。
大衆的人気を背景にして高尚な思想を語っている気分になるだけの、「凡庸な遊戯(ごっこ遊び)」だったということです。



図書館モデルと書店モデル

画面通りの彼女

画面で見ていた彼女が、カフェで向かい合って座っている。
画面通りの眼差し、画面通りのたたずまい、画面通りの仕草、画面通りの声……
再生を待つサムネイルのように恋人が微笑んでいる。
セールで掘り出した大きめのニット、300円ショップのイヤリング、ネット通販で探したブーツ……
動画で話題にしていたものばかりで、知らないのは一目でブランド品とわかるバッグくらいだ。
ヘアアイロンで軽く巻いた髪が、甘やかに落ち着き払っているのは、
最初に彼女を画面上で見た時と同じだ。
「髪型を変えようと思わないの?」と訊いたときは、「配信をしていると、イメージを変えにくくって」という応答をもらった。



「推し」の構造

「萌え」という消費の燃料

Twitterのフォロワーさんから、「推し」がよくわからない、というリプをいただいたので、「推し」について書こうと思ったのですが、
Twitterは論説には向かないメディアなので、ここに書くことにしました。
「推し」は「萌え」と関係が深いので、まずは「萌え」について復習したいと思います。
「萌え」は現実的に結実しない性欲を、社会的に認知してもらおうとする欲動のことでした。
そこでは性欲が現実的な相手に向けられることはなく、架空の対象へと向けられることで去勢されています。
対象と結ばれることのない虚しさを、商品購入やイベントなどの消費行為によって補完し、
性的な趣味的共同体に参入することで癒していくことが「萌え」の本質でした。



なぜ日本でポストモダンは「保守」になったのか【後編】

「去勢」された自慰的動物

これまで丁寧に見てきたように、「ポストモダン思想」は、消費行為に依存するオタクを、「思想色」で美化する役割を果たしました。
もはや現代思想は、実態を美しく加工するための「外見修正アプリ」の一種でしかなくなったのです。
そこには思想的な「意味」の正確さも内実も存在していません。
ただ後ろ暗いものを隠蔽するための「粉飾ファッション」があるだけです。