南井三鷹の文藝✖︎上等

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『人新世の「資本論」』(集英社新書)斎藤 幸平 著

新書大賞という「売り文句」

斎藤幸平の論考やインタビュー本を、僕はだいぶ前から何度か取り上げています。
彼は大昔に僕のAmazonレビューについて千葉雅也とTwitterでやりとりしているので、僕のことも記憶の隅には残っていると思います。
そんな昔馴染みの斎藤の著書『人新世の「資本論」』(2020年)が、今年の新書大賞の第1位に選ばれたというニュースを知って、
発売当初に購入したまま放っておいた本書を読むことにしました。
なぜ今まで読んでいなかったのかというと、僕はすでに斎藤の書いた専門論考をいくつも読んでいるので、だいたい内容が想像できるからです。



〈ネットワーク型権力〉と消費社会【後編】

還流する視線の非対称性

ヴェーバーが明るみに出した禁欲的プロテスタントの精神では、神の恩恵の確証を自らの倫理的行動の客観化(=可視化)によって示す必要がありました。
ここでの可視化は救済を受ける者であることを証明する動機で行われています。
しかし、パノプティコンで可視化されるのは、監視される囚人です。
可視化ということで、救済される者と囚人を重ね合わせてしまうと、
幸福なはずの救済者がまるで神の囚人みたいではないか、と思う方もいるかもしれません。
ぶっちゃけて言えばそういう解釈でもいいのですが、実際はもう少し複雑なメカニズムがあるので、それを説明します。



〈ネットワーク型権力〉と消費社会【前編】

文化という「兵器」

当たり前のことですが、ある作品が多くの人からの支持を受けるためには、それを多くの人に広める力が必要です。
とりわけ短期間で一気に広める場合、その時代の政治権力や大衆権力(=マスメディア)を利用しないわけにはいきません。
同時代的に評価を受けた作品には、その時代の権力との蜜月が色濃く刻印されているものです。
作品は時代の代弁者として評価され、時代に後押しされると同時に時代に強く拘束されます。
芸術や文学にそのような同時代性を超えることが求められるのは、
その時代の権力のパワーに頼ることなく、その作品そのものにパワーがあることが成立の条件になっているからです。
権力との関係が作品評価にとって本質的でないと考えるならば、
時代的刻印をきれいに取り去った後に残ったものだけを、作品評価の基準にするべきだということになります。



ポストモダンの肖像──鴇田智哉『エレメンツ』(素粒社)を読む【後編】

メタ視点を居場所にする文学はいらない

消費資本主義における超越性は、アイロニーによってメタ的な視点に立つことで擬似的にヽヽヽヽ達成されます。
このメカニズムを詳しく説明するのは、別の記事に譲りますが、
『資本論』の価値形態論を参照すれば、貨幣というものが全ての商品に対してメタな位置にあることがわかるはずです。
なぜなら、貨幣とはオブジェクトレベルにある商品群から、特定の商品(=金)だけを疎外して、すべてを媒介するメタな位置に置くことで成立したものだからです。
このメカニズムが貨幣を持つ者を、メタ的な位置へと押し上げます。
それは、マーケットに存在するあらゆる商品を、自分の「好き嫌い」で自由に選び取ることができる大富豪のポジションです。
商品すべてを俯瞰しうるメタ視点は、もともと大富豪にだけ許されたものだったわけですが、
メディア技術の進歩によって、たいして金持ちでもない人にも擬似的にヽヽヽヽそのような気分が得られるようになりました。
なにしろ自分の持ち金と関わりなく、インターネット上であらゆる商品を見渡して好きな商品を探すことができるのですから。
アメリカの貧乏人がどうしてトランプと一体化していられるのか不思議に思った人がいるかもしれませんが、
インターネットというメタ的な視点によって、いつのまにか気分だけ大富豪に近づいているのです。



ポストモダンの肖像──鴇田智哉『エレメンツ』(素粒社)を読む【中編】

作為のためにある俳句

さて、気が進まないので前置きが長くなりましたが、仕方ないので『エレメンツ』を読もうと思います。
シンプルに疑問なのですが、鴇田を褒めている人の中で、この句集を真剣に読んだ人はどのくらいいるのでしょうか?
なにしろ作者が優位な位置で楽をしているため、読者の方にとんでもない「労働」を強いてくる句ばかりなのです。
おそらく、この句集を褒めた人は、鴇田の句を手前勝手に解釈して遊んでいるだけで、ちゃんと読もうとしたことがないのだと思います。
(関悦史など俳句業界の啓蒙宣伝大臣として、大げさな言葉で内輪の俳人を気持ち悪いくらいに褒めちぎりますが、鴇田の句を全然まじめに読んでいないですよ)
まあ、俳人が俳句をきちんと読まないことは今に始まったことではありませんので、僕は別に驚きません。



ポストモダンの肖像──鴇田智哉『エレメンツ』(素粒社)を読む【前編】

1968年という「切断」

長らく俳句界では「若手俳人」の新傾向の俳句がブームになっています。
背景には、60代以上の高齢俳人の活躍が目立つ俳句業界の著しい高齢化があります。
ブームの発端となった、若い俳人のアンソロジー句集『新撰21』(2009年)がすでに10年以上前になります。
そのアンソロジーで名を馳せた若手俳人たちの多くは、その後も順調に評価を受け続けています。
有望な若手俳人が数多く登場することが「業界の利益」を持続させるため、業界人の評価は自然と甘くなります。
同年代が横並びで(集団的に)出世していく彼らのありようは、まるで戦後の高度経済成長を見るようです。



文化の骨について

韓国映画の快進撃

この前、地上波で韓国映画『パラサイト 半地下の家族』が放映していたのにたまたま気づいて、だいたい3分遅れくらいで見始めました。
実を言うと僕は映画嫌いです。
正確に言えば映画館ヽヽヽ嫌いなのかもしれませんが、
どうにも映画を見る意欲に乏しく、普段は目についたものをテレビで流して見るくらいなのですが、
さすがに『パラサイト』は、カンヌ国際映画祭でパルムドールに選ばれ、第92回アカデミー賞で作品賞をはじめ4部門を制覇した名作です。
暇があったら見てしまうものではあります。
たいした期待も持たずに見始めましたが、早めから観客を引き込むような巧みな作りで、最後までおもしろく見てしまいました。
僕はその程度の観客なので、映画にも詳しくありませんし、ポン・ジュノ監督の他の作品も全く知りません。
(後で調べてみたら、『グエムル 漢江の怪物』はCMを見た記憶がかすかにありました)
でも、この作品を見たら少し言ってみたいことが出てきました。


韓国に対する好き嫌いは別として、ある程度客観的な目で見ていくと、
映画やドラマに関しては、日本より韓国の方がクオリティの高いものを作っていると思います。
僕は以前に韓国の恋愛ドラマがなぜ日本の恋愛ドラマよりおもしろいのかを文章にしたことがあるのですが、
今やそこで書いた韓国ドラマのエッセンスを日本のドラマも真似するようになっています。
NiziUなど、グループアイドル界でも韓国の方法論を日本が後追いしているのが現状です。
(日本のアイドルにはBTSのようにビルボードで1位になる日は来ないでしょうが)
僕は読んでいないのですが、書店の外国文学の棚を見ているだけでも、韓国作家の本が増えた気がします。
マンガやアニメに関しては、まだ日本がリードを保っていると思いますが、
市場の狭いところで勝っているだけにも思えます。
まあ、この種の議論は感情的になる人もいるでしょうから、客観的評価というより僕の個人的感想ということでも構いません。
どんなに国内で大声を出しても、国際評価がついてこなければ虚しいだけですけどね。



芸術疎外論【その4】後編

敵対性を前提とする一神教思想

ヘーゲルの共同体において、否定性を介した「反省」というプロセスが重要であることはすでに確認したとおりですが、
この否定性の導入のことをヘーゲルは「疎外(Entfremdung)」や「外化(Entäußerung)」という言葉で示しています。
法律用語のEntäußerungは財産などの「譲渡」を意味する語です。
ここから個人の意志を権力へと「委譲」する意味で用いられることもあるようです。


疎外の概念が登場するのは、古代ギリシア的な人倫共同体が没落して、ローマ帝国になぞらえられる「法支配」が成立するようになってからです。
そのプロセスに軽く触れておきます。
共同体は他の共同体を排除して独立を保ちます。
その戦いに備えて、共同体は自らの内部をワンチームにしようと「個体が個別化することを抑圧する」ことになります。
なぜなら、ポリス的な人倫共同体にも共同性と個別性の葛藤は存在するからです。
ヘーゲルがそれを男性原理と女性原理、年配者と若者の葛藤として描いたりするのも興味深いのですが、
祖国防衛戦争に突入すると、共同性の原理が強まって個別性を否定していく結果になります。
しかし、それが皮肉な結果を導きます。
祖国を守るのは若い個別の兵士たちです。
共同体の維持という仕事が、命を賭けた若い兵士の個別性をかえって輝かせることになってしまうのです。
こうして生き生きとした人倫的な共同性は没落し、個別的な個体が生き生きとする普遍的な共同体が成立します。
これを『精神現象学』では「法支配」の状態と呼んでいます。



芸術疎外論【その4】前編

「他者」を否定するオタクたち

前回はヘーゲル『精神現象学』の「自己意識」の章に出てくる「不幸な意識」を中心に見ていきました。
不幸な意識ではキリスト教の精神が描かれていたのですが、
そこでは理念と現実、彼岸と此岸に分裂した意識を統一することが課題でした。
分裂した両者は「媒語」によって、いったん推論的に結合されて、次のステージである「理性」へと至ります。
「理性」の章は割愛しますが、その後には「精神」へと段階的に発展していくことになります。
『精神現象学』で疎外が語られるのは、「精神」の段階になってからです。


理性が精神となるのは、「いっさいの実在性である」とする確信が真理ヴアールハイトまで高められたときである。つまりその場合の理性は、じぶん自身をみずからにとっての世界として、また世界をじぶん自身として意識することになる。(ヘーゲル『精神現象学【下】熊野純彦訳)

長谷川宏は『ヘーゲルを読む』(1995年)で、ヘーゲルの「精神」を人間が集まって作る共同性だとして、
「精神はそういう共同の生活や共同の世界のうちにやどる」と述べています。
フレドリック・ジェイムソンも『ヘーゲル変奏』(2010年)で、ヘーゲルの「精神」には「集合性の含意がつねに込められてい」るとしています。
「精神」とは民族精神などのように、集合的・共同的なものを言うのです。
つまり引用文にある、自分が世界であり、世界が自分であると意識する、という内容は、
個々の人が個人でありながら、他の人々と共にある共同存在でもあるさまを表しています。
ここでヘーゲルは共同体論に踏み込んでいくわけです。



芸術疎外論【その3】

ストア主義という格差対策

前回はヘーゲルの疎外論に入る前段階として、疎外の問題が書かれている『精神現象学』が、普遍と個別の問題を取り扱った本であることを見ていきました。
今回は前回扱った主人と奴隷の論以後の展開から始めようと思います。
「自分だけで存在する」という個別的なあり方を追求した自己意識は、主人と奴隷へと分裂することとなり、
労働によって「現にあるもの」と関係する奴隷の方が、主人より自立的な存在として自らを直観する契機を持っています。
前回紹介したマクダウェルは、「統覚的自我と経験的自己」の中で、
ヘーゲルの主奴論が、共同体内部に存在する2人の別々の個人の関係を描いたものではなく、
ひとりの個人の中で分裂した意識を統合しようとするものだと主張しています。
どうもメジャーな解釈ではないようなのですが、実際にヘーゲル自身がそのような読み方を許容する書き方をしています。
主人と奴隷の章に続く「ストア主義→懐疑主義→不幸な意識」という展開では、
自己意識が不変の理念と個別的な現実に分裂することがテーマになっているからです。
この分裂はのちに疎外にも関係してくる部分ですので、少し丁寧に見ていきたいと思います。