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なぜ日本でポストモダンは「保守」になったのか【中編】

『動物化するポストモダン』を読み直す

2000年を過ぎて、現代思想は「ポストモダン」となり、左翼的な批判思想から同質性に依拠する保守的なオタクの消費物へと変化しました。
支配的なシステムを擾乱する思想が、サブカル領域へと移行して、システムを保守する思想になってしまいました。
このような保守化の流れを確認するために、いま一度東浩紀の『動物化するポストモダン』を丁寧に読み直してみようと思います。



なぜ日本でポストモダンは「保守」になったのか【前編】

そもそもポストモダンは左翼思想

80年代以降のジャーナリズムで隆盛した「ポストモダン」という時代区分は、〈フランス現代思想〉の日本的受容と深い関わりを持っています。
日本で「ポストモダン思想」といえば〈フランス現代思想〉のことになりますが、
その受容のされ方は本場と異なった独特の意味合いを持っていました。
しかし、ジャーナリズム上の論考では、西洋の「ポストモダン思想」が日本にそのまま適用できる前提で語られています。
中身が本場と全然違っていることは、議論の対象になっていません。
その結果、日本的でしかない思想をいまだに西洋思想として扱っています。



ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その3】

生きたままでの輪廻転生

前回はメディアが乗り物である、という話が中途半端なところで終わってしまいました。
速度の思想家であるヴィリリオは、『ネガティヴ・ホライズン』(1984年)で速度を生み出す乗り物について考察を試みています。
これまでのヴィリリオの主張をまとめておきましょう。

① 乗り物は乗り手を脆弱さから守る移動要塞である
② 乗り物は宗教的彼岸へと到達するための手段である
③ 速度とは暴力である
④ 乗り物に乗る、または乗り物に転生することは、支配的権力の地位にあることを表す

乗り物の初期形態は、馬やラクダなどの乗用動物です。
ヴィリリオは「乗り物」としての乗用動物が、主に戦争の手段だったことを重視しています。
乗用動物は乗り物であると同時に初期の軍事兵器でもありました。
当然のことですが、動物を乗用にするには調教が必要です。
「動物を乗用に調教することによって、運動エネルギーを、つまり馬のタンパク質ではなく、速度を保存する」と述べるヴィリリオは、
動物が狩られるものから家畜として育てられるものへと移行することで、「速度の保存」が行われるとしています。
「速度の保存」というのは面白い表現ですが、要するに電気自動車をフル充電するように、速度を生み出すエネルギーをいつでも使えるようにしておくということです。
こうして走行用の動物は、「最初の速度製造機」となり、それがやがては蒸気機関へと置き換えられていくのです。



ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その2】

ヨーロッパという「速度体制」

一般にポール・ヴィリリオは「移動」を前提とした「速度」の思想家と言われています。
それはヴィリリオが速度に注目し、ヨーロッパ社会全体を「速度体制」として描き出しているからです。
「速度体制」とは、どのような社会構造なのでしょうか。
この言葉はヴィリリオの造語であるドロモクラシー(dromocratie)の訳語です。
dromo-という接頭辞はギリシア語の「走行」を意味するので、「走行体制」と訳している翻訳者もいます。
前にも述べましたが、ヴィリリオは独自な言葉の使い方をするので、語義的な正確さにこだわる必要はあまりないと思います。
僕自身は「移動と加速を管理する権力による社会体制」と理解しています。
要するに、「速度体制」とは、社会全体が速度によって規定されていることを示す言葉なのです。
この表現が、総力戦体制から逆算して取り出されたイメージであることは疑いようもないことです。
つまり、ヴィリリオはかつてない大規模破壊を導いた総力戦体制のルーツを、権力が持つ速度への欲望とその社会システム化に見ているのです。
ヴィリリオは歴史事実の引用によってそれを示していくのですが、注意したいのは、
彼の目的が歴史事実を明らかにするのではなく、歴史を材料にして現代の総力戦体制がいかに「ある種の欲望ヽヽの帰結」であったかを描き出すことにあるということです。



さらば俳句村

高松霞と西川火尖の集団嫌がらせ事件

もうバカバカしくて詳細を書く気にはならないのですが、
先日、僕は連句人を名乗る高松霞の発案に乗っかった西川火尖などの俳人たちから、
ネットで集団嫌がらせの標的にされました。
キッカケは最果タヒという詩人が書いた俳句を、髙鸞石という俳句界の異端児が引用リツイートで「全然面白くない」と吐き捨てたことにありました。
その結果、髙鸞石は最果タヒの怒りを買い、関係者である「東京マッハ」そのほか多くの人にTwitter上で袋叩きに遭いました。
僕自身はその袋叩きがだいぶ盛り上がった頃に、その事態を知りました。
僕は髙鸞石の行為に賛同する気は全くなかったのですが、面白くないものを面白くないと言うくらいで、どうしてそんなに騒ぎになるのか理解できませんでした。
最果タヒのツイートを見ると、どうやら髙鸞石が俳句業界を背負った人物であるかのように勘違いして、
俳句ジャンルに凝り固まった人が現代詩ジャンルの自己流俳句に文句を言っている、というような流れになっていることに気づきました。
いつの間にか、ジャンルとジャンルの間の揉め事のようになって、炎上していたのです。



ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その1】

誤解された思想家

ポール・ヴィリリオの名前を聞かなくなって久しいですが、2018年に亡くなったことで、ますます過去の人になろうとしています。
日本ではヴィリリオの翻訳書が多いわりに、ヴィリリオに関心を持つ人はあまり多くありません。
人気の〈フランス現代思想〉に属しているわりに、そもそも概説書がほとんどないですし、
翻訳者のほとんどがいわゆる有名大学の研究者ではありません。
おそらくヴィリリオが建築家であり、アカデミックな研究者でないことが影響しているのでしょう。
そんなマイナーな存在なのに、日本でヴィリリオの翻訳書が多いのは、
日本で大人気のドゥルーズ=ガタリの双方と交友関係を持っていたからだと思います。
ヴィリリオはドゥルーズ=ガタリの著書で言及されているだけでなく、ドゥルーズと個人的な付き合いもあった人です。
ガタリとは一緒に自由FM放送局「ラジオ・トマト」を立ち上げています。
しかし、僕自身はヴィリリオを読んでいた時に、ドゥルーズ=ガタリを意識することは全くありませんでした。
日本のドゥルーズ学者がヴィリリオに特別な関心を抱いたこともなかったと思います。



千葉雅也に見るポストモダンの権力構造【付録】

ポロリ必至の「放言だらけの大座談会」

さて、ここからは特別コーナーです。
ポストモダン的主体についてはだいたい総括できたので、その代表たる売文研究者と癒着した「現代思想」という雑誌の「放言だらけの大座談会」を楽しむことにしましょう。
(そこのお父さん、不用意な発言がポロリすることもありますよ!)


ポストモダンの相対主義が、たった一つの現実や真実をいたずらに複数化し、真実の価値を貶める「ポスト・トゥルース」状況を生み出したことは、
利権から自由な知性を持つ人なら誰でも思い当たる事実です。
この事実を認められないのは、ポストモダン思想を生業にしているポストモダン研究者やポストモダン作家だけなのですが、
青土社はわざわざそのような「抵抗勢力」を集めて、放言だらけの居酒屋談義レベルの座談会を一般商業誌に掲載しています。
全体的に読む価値がない特集なのですが、今回は千葉雅也が参加した「現代思想」2021年6月号の座談会を取り上げて、
僕が定義したポストモダン的主体の有り様を実践的に確認してみようと思います。
(※真実を提示することを「ゲス」だと感じるセンシティブな方は、この先を絶対に読まないでください)



千葉雅也に見るポストモダンの権力構造

権力化した旧メディアの落日

2021年の現在、東京オリンピックの開催が迫る中で、新型コロナ(COVID-19)の感染状況の悪化が続いています。
思うような経済活動ができない人も多く、失業も増えていますが、日経平均株価は近年にない高値をつけています。
つまり、実体経済の現場は不況に苦しんでいるのに、金融経済だけはバブルの好景気にあるのです。
このような状況を端的に表現するならば、「階層分断」ということになると思います。
新型コロナの猛威は、日本社会で広がりつつあった経済格差の問題を、階層分断にまで高めつつあると思います。
しかし、この階層分断は単純な経済格差にとどまりません。
生活の現場である「現実」と人々の社会ネットワーク上の〈思念現実〉との分断が進んでいるのです。


このような「人間の生活現場」と「資本のネットワーク」の階層分断は、あらゆる場面でヴァリエーションを変えつつ再生産されていくことになります。
たとえば世代間格差です。
とりわけ人間を相手にする接客業は新型コロナの影響をもろに受けていますが、接客業で働く人たちは主に若い世代です。
それに対して「資本のネットワーク」に属するテレワーク世代は中堅世代が多く、さらに年金世代になれば大部分ステイホームが実現できるわけです。
それが旧メディアと新メディアとの分断を後押ししています。
テレビなどのステイホームメディアは高齢者ばかりが見るようになり、出社する世代はモバイル端末を見ることになります。
テレビや出版などの大手マスメディアは、もう10代20代の人たちにとって価値基準になる重要な情報源ではなくなってきています。
このままでは旧メディアは将来的に消滅することになるでしょう。
旧メディアは既存のお客さんをとどめる以外に手段がないので、旧世代の人々にウケるものを提供していきます。
その結果、旧メディアは「大本営発表」と「ノスタルジー」という商品しか提供できなくなってしまいました。



俳句の終わりを考える【後編】

河東碧梧桐という「詩人」の亡霊

俳句はクリエイティブでもなければ、アートでもない、と僕は言いましたが、
何も俳句をけなしているわけではありません。
そんなものがなくても俳句は立派に文学として存在できます。
俳句には俳句の道があるのですが、なぜか最近の俳人は俳句にコンプレックス(隠キャ!)があるらしく、
俳句でありながら俳句でないものとして見られたい、という青臭い我儘に膠着してどんどん作品の質を下げています。
俳句として見られたくないなら、俳句雑誌や俳句番組になど出て来なければいいと思うのですが、
前述したように、彼らは本質的に業界のインフラに依存しないで売り上げを稼ぐことができない新フレーバー製品なので、旧製品の販売ラインから外れることができないのです。
このような試みが何か生産的な結果を生むはずもないのですが、クリエイティビティと無縁な俳人は本質的な業界批判ができない人ばかりなので、
出版メディアの没落に付き合って、文学としての俳句文化も没落させてしまうことになりそうです。
まあ、本当に没落するまで僕の言うことなどわからないのでしょうし、僕自身は不愉快な目に遭わされた業界なので、勝手にすればいいと思うようになりました。



俳句の終わりを考える【前編】

ジャーナリズムと一体化した文学

僕は俳句を作ることはありませんが、ある不愉快な事件から俳句を学ぶようになりました。
「週刊俳句」というサイトで生齧りの現代思想を身勝手に用いる某俳人を批判したら、当人が応じることを避けるだけでなく、代わりに仲間が不愉快なコメントをしてきたのです。
彼らは自分たちが現代思想をきちんと学ばずに適当なことを書いているくせに、
その批判をした僕に「俳句をやらないなら謙虚でいろ」などと言ってきました。
そんなに偉そうに言うなら、彼らの土俵で論戦してやろうと思って俳句を学んだのですが、
その結果わかったことは、彼らは現代思想どころか俳句についても生半可な知識しか持っていなかったということでした。
俳人の多くはアーティスト気分で俳句を作ることには一生懸命なのですが、案外俳句や俳句史をたいして勉強していないのです。
そのため俳人は自分のアラがバレないように、互いに批判をすることがタブーになっています。
批判は裏アカウントやエアリプで行われ、それほどでもない句であっても表面上は過剰に褒め合う「挨拶」が客観評価として流通する有様です。
批判をする人間は非礼であり悪である、という通念が俳句の世界にはあるのです。
それだけではありません。
当時の「週刊俳句」周辺にいた俳人は、俳句をやっていない人間を差別しておきながら、今や俳句の勉強が必要ない「わからない」俳句を褒めることに執心しているのです。
しかし、こういう連中を出版やマスコミなどのジャーナリズムがありがたがって起用しているのも事実です。
どうしてこんな事態になってしまったのでしょうか?