南井三鷹の文藝✖︎上等

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芸術疎外論【その2】

ヘーゲルあってのマルクス

前回の記事では、マルクスの疎外論の評価がどのように移り変わっていったかを見ていきました。
そこで多少は疎外論の輪郭は示したのですが、疎外論そのものについての本格的な考察を後回しにしてしまいました。
これから芸術創作にとって疎外論が持つ意味を探求したいと思いますが、
マルクスの『経済学・哲学草稿』を読んでいく前に、どうしてもヘーゲルの疎外論を見ていかないわけにはいきません。
『経済学・哲学草稿』の第三草稿には「ヘーゲルの弁証法と哲学一般への批判」という章があるのですが、
マルクスの疎外論にはヘーゲル哲学の批判もしくは継承という面が強く出ています。
ものすごく簡単に整理すれば、
まずヘーゲルの疎外論があって、それを批判するフォイエルバッハの疎外論があり、それを受けてマルクスが自分の疎外論を発展させた、という流れがあります。
つまり、マルクスの疎外論には、ヘーゲルの影響とフォイエルバッハの影響とが見られるのです。


マルクスが自立した思想家になったのは、ヘーゲル左派(フォイエルバッハ)の影響から抜け出した後である、という立場が、
疎外論を未熟な時期の思想として軽視する見方を生み出したことには前回触れました。
僕もフォイエルバッハの影響に関しては、のちのマルクス思想に重要な役割を果たしたとはあまり思わないのですが、
ヘーゲルとなると話は別です。



芸術疎外論【その1】

疎外されたクリエイター

ケース①
出番を待つ間、お笑い芸人のMはまた学生時代を思い出していた。
サークルの合宿で先輩から「何か面白いことをやれ!」と急に声をかけられて、とっさに思いついたギャグをした時のことだ。
彼自身は自分が何をやっているのかもよくわからなかったが、
その場にいる人々の笑い声が、空間を震わせるうねりとなり、
正面に立つ彼の全身に次から次へと降り注ぐのを感じていた。
ウケるということは幸福な空間づくりなのだと知った。
快進撃はお笑いの世界に足を踏み入れても続いた。
Mのギャグはお茶の間にも知られるようになった。
そうしてMは、そのギャグをしている瞬間のために生まれてきたかのように感じるようになった。
彼のギャグは彼の魂だった。
しかし、そこまでだった。


何年かすると、Mは新しいギャグも求められなくなっていた。
多くの人が見飽きているはずのギャグをテレビ局から要求された。
そのうちMは散発の笑いの間にあるソーシャルディスタンスが計測できるようになった。
もうやめたい、と思った。
もうやめたい、と事務所にも相談した。
まだ喜ぶお客がいる、と言われた。
そして今日もステージに立っている。
「あれ、お願いします」と言われるたびに、彼のギャグは彼のものでなくなる気がする。
Mはもう自分のギャグの奴隷だった。
いっそ現実の自分は死んでしまって、インターネット上にいる映像の自分が、勝手にギャグを繰り返していればいいのだ、と思った。



『現代思想の基礎理論』(講談社学術文庫) 今村 仁司 著

80年代にねじ曲げられた現代思想

ポストモダンという価値観が日本では〈フランス現代思想〉との関連で語られてきました。しかし、ポストモダンがマルクス主義とどう関係してきたのかを理解している人は少ないように思います。
マルクス主義はスターリン批判(1956年)フランスの五月革命(1968年)を境に、大きな転換を迫られることになったのですが、
日本で現代思想の代名詞となった〈フランス現代思想〉がその影響下にあることは、僕の世代になるとあまり考慮されていなかったように思います。
フランスの知識人は伝統的に左派だというのが常識なのですが、
フレンチ・セオリーがアメリカでウケたこともあって、そのあたりの事情がぼやかされてしまっているように思います。


本場の〈フランス現代思想〉は左派的な性質を持っているのですが、
日本のとりわけニューアカ以降の現代思想ブームは、ソビエト社会主義体制の落ち目の時期と重なったため、
マルクスの影響を隠蔽するようなかたちで、アメリカ消費文化の牽引役を果たしてきました。
これが本来の〈フランス現代思想〉とは似ても似つかないものであるため、僕は〈俗流フランス現代思想〉と呼んでいます。
そのため日本では、フランス思想といってもマルクスの『資本論』の読み直しを行ったアルチュセールにこだわっている市田良彦のような存在はマイナーで、
学問的内実に乏しい学者なのか文筆家なのかよくわからない人が、
青土社や河出書房新社などの出版ジャーナリズムと癒着関係にあって幅をきかせてきました。
(こういう人に限って、マルクスはもちろんアルチュセールにもスピノザにも触れずにドゥルーズを語っていたりするのです)
その結果、日本の無知な出版ジャーナリズムしか知らない人が、「リゾーム」とか「差延」とかいうキーワードを振り回して現代思想を理解した気分になっています。
現代思想の政治的な面を意図的に脱色(去勢)してきたのが、日本のオタク向け現代思想というものなのです。


そのような〈フランス現代思想〉の日本的「ねじ曲げ」が行われる以前に、
マルクス経済学とアルチュセール思想に詳しい今村仁司が、マルクス主義の文脈をからめて現代思想を紹介していた本を見つけました。
『現代思想の基礎理論』(1992年)という本です。
残念ながら今は絶版になっています。
本書を読むと、僕がAmazonレビューに書いて散々文句を言われた内容が普通に書かれていました。
この本がもっと読まれていれば、僕が不当な攻撃を受けることもなかったように思います。


たとえば、僕が〈フランス現代思想〉が出版界の中心にある、と書いたことを取り上げて、
佐野波布一(僕の旧筆名)を当てにならないレビュアーだと中傷記事を書いた人がいましたが、
残念ながらその程度のことは本書にしっかり書かれています。
「現在の日本の文化ジャーナリズムを眺めてみますと、ヨーロッパのある地域で話題になっている一部の思想が乱舞しているようです」
今村が言う「ヨーロッパのある地域」とはもちろんフランスのことです。
今村は〈フランス現代思想〉を「流行」と捉えています。
〈フランス現代思想〉は現代思想の代表ではなく、日本の「流行」でしかないという視点が1987年の時点には存在していたのです。
今村は続く部分でこうも書いています。


日本で好んで話題にされている当世風の思想は、この広い地球上の一画で生れたもの、つまりフランスの思想です。構造主義、ポスト構造主義、ディコンストラクション、ポストモダン、等々はおおむねフランス産であり、そのうちのあるものはフランスからアメリカに輸出され、アメリカ化したフランス物が日本に輸入されて、文化産業によってニューモデルの文化商品として流行しているといってよいでしょう。

これを今村は「病的な現象」であり、「知識人たちは、フランス物ばかり流行する日本の文化状況に対してしきりに反撥しています」と述べています。
これを読めば、僕の言っていたことなど一昔前の知識人の普通の意見だったことが想像できるのですが、
ニューアカ以降の「文化商品」でしか思想を知らない僕周辺の世代は、
出版ジャーナリズムを正義と短絡する消費市場崇拝に染まっています。
本書を読むと、アカデミシャンが出版ジャーナリズムと距離を保っていた時代にノスタルジーを感じずにはいられません。



たかが俳人されど俳人

コンプレックスを埋めるためのドーピング

この文章は本当はTwitterでつぶやきたかったのですが、
あまりに長くなりすぎるので、不本意ながらブログを使うことにしました。
俳句に興味のない読者は読み飛ばすことをお勧めしますが、
文学や詩の現状を知る手がかりにはなるかもしれません。


最近、安里琉太という1994年生まれの若い俳人が、処女句集『式日』を出しました。
帯文には「到来し、触発する言葉」とか「書くことは、書けなさから始まっていると、今、強く思う。」とか、
安里当人の言葉かわからないのですが、フランス現代思想にでも憧れてしまったかのような浮ついた言葉が踊っています。
(これを見て福田若之『自生地』のデリダってる自意識を思い出してしまいました)
私が書くのではなく、言葉の方から到来したのだ、ということなのでしょうか。
こういう宣伝文句から「自称詩人」感があふれているのですが、いやいや、これは若い人の句集でしかありません。



『有閑階級の理論』(講談社学術文庫)ソースティン・ヴェブレン 著/高 哲男 訳【後編】

顕示的浪費の文化的影響

不勉強な哲学者たちの誤りを正すのに紙幅を費やしてしまいましたが、
学者でありメディア露出も多い著名人が出版し、業界ではそれなりの評価を受けた本でさえ、プロの仕事と言えないものがある、と認識することが大切です。
文章の内容は、本質的に、内容そのもの以外(社会的地位や名声など)が判断材料になることなどないのです。
とりわけ権威への依頼心が強い人を信用しすぎるのはお勧めしません。


ここまでが『有閑階級の理論』全14章のうちの4章までにあたります。
おいおい、まだまだ残りの方が断然多いじゃないか、と思われるかもしれませんが、ここからは派生的な内容です。
よく読むと興味深い記述がたくさんあるのですが、
記事の長さを考えて、僕が個人的に興味を惹かれたところをピックアップして書いていきたいと思います。



『有閑階級の理論』(講談社学術文庫)ソースティン・ヴェブレン 著/高 哲男 訳【前編】

異端の経済学者

消費資本主義について考察する上で、読んでおかなければならない本の一つにソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』(1899年)があります。
ヴェブレンには他に『企業の理論』(1904年)などの著作があるのですが、結果として処女作が長く読み継がれることになりました。
僕が100年以上前の古典を取り上げるのは、ヴェブレンの有閑階級についての考察が、アメリカ消費文化への批判であり、
ひいてはアメリカ消費文化を模範として発展した日本の現在の消費文化を考察することに役立つからです。
現在、講談社学術文庫(高哲男 訳)とちくま学芸文庫(村井章子 訳)で翻訳が出ているのですが、ヴェブレン独自の思考展開(特に後半)についていくのが難しく、
僕は両ヴァージョンを計3回(講談社を2回)読んだのですが、3回目でやっと何かが書けるような気がしてきました。
(この記事での引用文は断りがない限り、講談社学術文庫版を用います)


「異端の経済学者」とも言われるヴェブレンの経歴は少し変わっています。
彼はもともと哲学で博士号を取得しています。
カントやハーバート・スペンサーを研究していたようで、「カントの判断力批判」という投稿論文が残っています。
ヴェブレンは哲学科の大学教員になりたかったようなのですが、望むような仕事は見つからず、一度は実家のあるミネソタに戻りました。
幅広い分野にわたって読書をしたのがこの期間だと言われています。
そこからヴェブレンは経済学へと転身し、コーネル大学の大学院へ2年間通います。
そこで指導教授をしていたラフリンに気に入られ、ラフリンがシカゴ大学の経済学部長になると、その縁で助手のポストを得ることになるのです。
ヴェブレンは1899年に『有閑階級の理論』を出版し、翌年には助教授になりましたが、学界での評価はそれほどでもなかったようです。
それでも晩年にはアメリカ経済学会の会長に推薦されたこともありましたが、
ヴェブレンはそれを辞退し、カリフォルニア郊外の小屋で自作の家具とともに質素に暮らしました。
亡くなったのは、1929年の世界大恐慌が起こる直前でした。



丸山眞男に学ぶ日本の精神病理

忘れられた戦後思想のツケが大学改革に影響している?

今回は丸山眞男の「軍国支配者の精神形態」(1949年)と「超国家主義の論理と心理」(1946年)について書こうと思っているのですが、
キッカケは思想とは直接関係のない本を読んだことでした。
(どちらの論考も『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー)に所収)
丸山などの戦後思想は僕が物心ついたときにはほとんど読まれていなかったと思います。
プルデューに言及したりして左翼を自認する大学教授が、ろくに丸山を読んでいなかったことに驚いたこともあります。
ポストモダニズムは欧米では自己批判の思想ですが、日本では自己批判的な意味を持つ戦後思想を過去へと追いやり、
バブル景気を背景に日本を肯定する役割を果たしました。
しかし、戦後思想は役割を終えたわけではなく、現在も解決されない問題として残り続けています。


それが最近出版されたある本に示されていました。
大学受験制度が来年から共通テストという新方式に変更されるにあたり、
英語の民間試験導入や国語の記述式回答などで文部科学省への批判が相次いだのは、記憶に新しいところです。
そんなこともあって、佐藤郁哉の『大学改革の迷走』(ちくま新書:2019年)を読んでみたのですが、
意外にもその中で丸山眞男の「無責任の体系」が出てきたのです。


せっかくなので少々回り道をして、佐藤の本についても少々触れておきます。
佐藤は文科省などが主導する大学改革が、なぜ迷走しているのかを考察しています。
最初に、大学の履修登録の資料となる「シラバス」が、手本であったはずのアメリカのsyllabusと全然違うということを取り上げます。
電話帳のようなシラバスや、桐の箱に入れられたシラバスなど、アメリカ人が見たら目を見張ることでしょう。
そのような事態になってしまったのは、文科相やその諮問機関である中央教育審議会からの「御意向」を、
大学側が「忖度」した結果だと、佐藤は指摘します。


こうしてみると、日本の大学は、文科省が改革度を測るモノサシとして設定してきた各種の基準などを元にしてシラバスの理想形について「忖度」しながら、教員たちのシラバス作成やその監視・修正の作業を進めてきた、ということが言えそうです。(佐藤郁哉『大学改革の迷走』)

次に佐藤は、もともと工場の品質管理に用いられていたPDCAサイクルという言葉が、
大学改革関連の文章の中で使われるようになったことについて検証します。
工場で作られる製品に適用される方法が、どうして教育機関に持ち込まれたのか不思議になりますが、
どうやら文科省がビジネスの世界を参考にして大学改革を進めようとしたことに原因があったようなのです。
ここで佐藤は、早稲田大学ビジネススクール教授の山田英夫の「フレームワーク病」という言葉を紹介しています。


山田氏は、日本というのは、新奇なビジネス用語やフレームワークが次から次へと海外(主に米国)から輸入されて流行してきた「不思議な国」であるとします。また、日本のビジネスパーソン(特に若い人々)には、その流行に乗らないと取り残された気分になってしまったり、単に用語を使うことで分かったような気になってしまったりする傾向があるとし、それを「フレームワーク病」と呼んでいます。(『大学改革の迷走』)

この「フレームワーク病」に思い当たらない日本人は少ないと思います。
海外から形式だけを輸入してその内実に関心を払わないために、実質的な効果がなくなってしまうのが「フレームワーク病」です。
こうして内実のない形式だけが大流行します。
海外の影響を形式上にとどめて、自己都合の「翻案」をするのが日本人の特徴でもあります。


日本における大学改革の不幸は、政府あるいは内閣府や文科省などの府省が、外来のモデル(と一見そのように見えるもの)を付け焼き刃的に借用した上で大学現場に対して押しつけてきた、というところにあります。(『大学改革の迷走』)

海外のモデルを一次的権威として、国内の政府や府省が二次的権威となって、より下方へと権力的な振る舞いをする、
これを僕は広い意味での天皇制メカニズムだと考えているのですが、この権威主義的メカニズムについてはあとで取り上げます。
佐藤は、文科省や中教審などが、PDCAをきちんと理解せずに大学に押しつけたことと、
大学側が民間経営手法の「劣化コピー」に従うか従うフリをしたことを批判します。
ここには僕が〈内実に対するニヒリズム〉と名付けた日本人の表層執着志向が見られます。



『くたばれインターネット』(ele-king books)ジャレット・コベック 著/浅倉 卓弥 訳

私はインターネットが嫌い

書店で手にとって中をパラパラしてみると、最初のページに「役に立つ小説」というコベック本人の署名入りの一文が目に入りました。
ついで真偽の定かではない本書についての書評が載せられています。
混乱したままページをめくると、「閲覧注意」の囲い文があり、
「本書は以下の内容を含みます。購読の際はご注意下さい」と書かれたその下には、
「資本主義、男どものすげえ臭い体臭、歴史上登場した懐古主義、殺すぞとの脅し、暴力、人々の絆、流行り廃り、絶望、際限ない金持ちへの嘲笑(以下略)」と続きます。
まるで一昔前の怪しげなサイトに接続するような注意書きですが、筆者のコベックはそういう文化に親しんでいたのでしょう。
実際に読み終えると、たしかに挙げられているような内容が書かれていたのですが、
閲覧注意というほどの刺激があるわけではないのでご安心を。



『柄谷行人浅田彰全対話』(講談社文芸文庫)柄谷 行人 浅田 彰 著

対談という日本的な文化

本書は1985年から1998年にかけて行われた、柄谷行人と浅田彰の対話を6回分収録しています。
対談というのは良くも悪くも日本的な文化だと思います。
日本のジャーナリズムでは大人気企画で、2人だと「対談」、複数だと「座談会」と呼ばれたりするのですが、
座談会は菊池寛が「文藝春秋」誌上で初めて企画したと言われています。
これらはあまり欧米では行われていないもののようです。
欧米ではインタビューの形で話し手と聞き手をある程度しっかり分けて、
話し手の考えを読者にわかるように伝える、というジャーナリスティックな目的で行われているように思います。
しかし、対談や座談会では共通の「場」に複数の人が参入し、ある話題について意見を交換するというかたちで進みます。



非在の芸術

現代アートへのレクイエム「番外編」

山本浩貴『現代美術史』は僕が「現代アートへのレクイエム」を執筆している時期に刊行されました。
読み始めた時には記事のほとんどが書き上がっていたので、この本の内容を少ししか反映させることができませんでした。
リレーショナルアートを取り上げられなかった心残りもあって、
「現代アートへのレクイエム」の付け足し「番外編」のようなスタンスでこの記事を書き始めたのですが、
だいぶ話が違う方に展開してしまったので、とりあえず書評に分類するのをやめました。
(この記事で「本書」と書かれているのは『現代美術史』のことです)
考えてみれば、僕は現代アートという制度はもちろん、作品の多くにも否定的です。
現代アートの価値を疑ったことのない人が書いたものをおもしろく読めるはずもなく、
どうしても批判的な筆致になってしまいます。